「任意同行をお願いできますか?」
その一言で、場の空気が変化した。右奥のガスレンジで揚げ物をしていた女性がぎょっとした顔でこちらを振り返るが、敏野は構わず、目の前の人物の反応を待った。
「仰る意味が――」その人物はさすがにそれまで絶えることの無かった笑みを強張らせる。「ええと。つまり、わたしが彼を――阿久津一樹を、その……殺したと?」
「はい。そう受け取って戴いて結構です。逮捕状の発行も時間の問題です」
硬い表情のまま、それでも取り乱すことなく、その人物は疑問を投げかけてくる。
「何故――わたしだと。刑事さん」
「詳しいご説明はここではなんですので、まずは県警にお越し下さいませんか」
「でも、逮捕状もまだなんでしょう。証拠とまでは言いませんが、推論のひとつも聞かせてもらえないことには――わたしも忙しい身ですし――請け合えませんよ」予想通り、突っぱねてくる。「そもそもわたしが犯人だとするなら、一体どうやって彼の食べたハンバーガーに毒を仕込んだんですか」
「ああ――それは簡単ですよ。そこの電子レンジを利用したんでしょう?」
敏野は奥の棚の上を指さす。
「成る程」背後を振り向こうともせず、その人物は再び笑顔を見せた。「結構です。行きましょう。署の方で自白いたします」
1
程なく戻ってきた相棒に、敏野は車を出すよう指示した。飯屋の席を取ってきたばかりの若い相棒は、不満げな顔を見せる。
「たった今無線に連絡が入ったんだ。一色町で変死だ。殺しの可能性もあるらしい」
「待ってくださいよ、じゃあ昼飯はお預けですか?」
「そういうことになるな」
「どうせ事情聴取までやることないんですから、食ってからゆっくり行きましょうよ。今日の昼定食、ヒレカツですよ。もう3時過ぎたから、今行かないと終わっちゃいます」
「事件が起きてるのに悠長に飯食っとるわけにもいかんだろう。いいから予約取り消して来い」
敏野の言葉に嘆息しながらも、相棒の表情にはどこか安気さが窺える。どうせ、これで今日は面倒な聞き込みの続きから解放されると踏んだのだろう。確かに真夏の酷暑の中、高台の住宅地を1日中歩き回らねばならないのは辛かろうが、もう中年の自分が辛抱できているというのに、いい若者がフットワーク不足では困り者だ。
「ああ、そうだ。じゃあマック寄っていきましょうよ、マック」
「マック? ハンバーガー屋か」
「ええ。ドライブスルーで買いましょう」
どうやらまたぞろ若者の食文化に付き合わされるようだ。敏野はうんざりしかけ、こんなことばかり考えているから自分は「年の刑事」などとからかわれるのだ、と思い直した。
一色町の外れにある新興住宅地に建つマンションの一室が、被害者の自宅兼仕事場だ。
「阿久津一樹といえば、同人上がりのそこそこ有名な漫画家ですよ。うちにもコミックスが何冊かあります」
マンション駐車場に車を停め、ふたつめのバーガー――チキンカツバーガーらしい――をぱくついている相棒の名は、若井という。まだ24歳の新人だ。課では自分と若井のペアはその苗字に引っかけ、「年の刑事」と「若い刑事」の凸凹コンビとして知れ渡っている。どちらか片方だけなら問題ないのだが、ふたり揃うと「名は体を表す」相乗効果が生まれてしまい、初対面の相手にすら冷やかされることもある。若井の刑事としての素質は敏野も認めるところなので采配自体に不満はないが、この呼ばれ方だけは不本意なことこの上ない。
「そうか。死んじゃったか。しかも服毒自殺なんて、なにか悩みでもあったんですかね」
「まだわからんよ。誰かに毒を盛られた可能性だってある。現に遺族は殺しを訴えているらしい。よし、そろそろ行こうか」
「あ、敏野さんポテトもういらないんですか」
若井は敏野の返事も聞かず、残っていたフライドポテトをがーっと口へ流し込んだ。
オートロックのマンション内にもたむろする野次馬たち――ほとんどが住人だろう――を押し退け、外通路に貼られたテープを潜って、角部屋である107号室に辿り着くと、ちょうど遺体が搬送されていくところだった。
敬礼する捜査員たちと挨拶を交わし、尊顔を窺う。ふくよかな顔付きで無精髭を生やしているが、まだ若そうに見えた。遺体はすぐに解剖に回されるそうだ。捜査員に礼を言って、入れ替わりに室内へ足を踏み入れる。中はまだ慌ただしさが残っている様子だ。事件現場特有のぴりぴりとした空気に、自然と身が引き締まる。
若井が早速班長に捜査状況を聞きに行ったようなので、敏野は床のマーカーなどに注意しつつ、遺体発見現場と聞いているダイニングキッチンへ向かった。
部屋の中は既に大方調べ終えられているらしく、指紋採取している捜査員がひとり残っているだけだった。ドアを入ってすぐ目の前に椅子が横倒しになっている。床には黒ずんだ液体が零れており、そこから甘ったるい臭気が立ち上っていた。
ダイニングテーブルの上には細長く折り畳まれた黄色い包み紙と2リットルのコーラのペットボトル、そして空になったコップと黒い液体の染み――どうやらこれも床の水溜まりもコーラだったようだ――があった。
被害者はここで毒を口に入れ、苦悶して死んだのだ。
敏野はそこここに飛んでいるコーラの飛沫を踏まないよう気を付けながらテーブルを迂回し、部屋の中をぐるりと見渡す。ダイニングの広間と対面式のカウンターキッチンが隣り合った間取りだ。テーブルはカウンター側に寄せられている。午後の日が差し込む上げ下げ型の出窓が入り口の突き当たりの壁にあり、網戸からそよぐ風がプランターの葉を静かに揺らしている。
まだ新居なのかキッチン内の汚れは目立たず、綺麗に片付いていたが、シンクの中には数枚の使用済みの皿や湯飲みがあった。ガスレンジにはぬるま湯の張られた片手鍋。屑籠は可燃ゴミとリサイクルに分けられ、生ゴミやレトルトカレーの外箱、カップラーメンの容器などがちゃんと分別されて入っていた。
冷蔵庫の中も程良く整理されていて、賞味期限の切れた食品が押し込まれている様子はない。この家の奥さんはなかなか几帳面な性格のようだ。無論、被害者自身が管理していたのかもしれないが。
ダイニングに戻る通路側のカウンターの上に、テーブルの方へ向けて電子レンジが置かれていた。最新型なのか、見慣れぬ形状だったが、気になるのはその扉が完全に閉まっていないことだった。捜査員に訊ねると、最初からこの状態だったらしい。指紋の採取が済んでいることを確認してから取っ手を摘んで開けてみたが、中にはなにも入っていなかった。
「敏野さん」
若井がダイニングの扉から顔を出す。敏野は頷き、彼の元へ向かった。
「被害者はここの主人で阿久津一、32歳。職業は漫画家で、ペンネームが阿久津一樹。死亡時刻は2時30分頃、当時は漫画の執筆中で、彼だけ少し遅れて昼食を摂っていたようです」
「彼だけ、とは?」
「はい。当時この家にいた人間――今は別室で休んでもらっていますが――は、まず被害者の妻、阿久津晴美。それからアシスタントの三森好生。ふたりとも仕事場の方で漫画の執筆を行っていました」
「奥さんもかね」
「ええ。彼女も元々被害者のアシスタントに就いていたようで、結婚後も専業主婦の傍ら、被害者の仕事の手伝いを。で、このふたりと被害者は共に昼食を摂ろうとしていました。皆さん仕事中は簡単な食事で済ませるそうで、奥さんは買い置きのカップラーメン、三森氏はこれまた買い置きのレトルトカレーを選択しました」
成る程、先程のキッチンの状態には合致する。
「それで、被害者がひとりだけ近くのコンビニに、えー、買い出しに行きましてですね。……コーラとハンバーガーを買ってきたわけです」
思わずふたりで顔を見合わせる。テーブルの上の包み紙から予想はしていたが、今さっき自分たちが口に入れたばかりのものと同種の代物に毒が入っていたかもしれないと知るのは、さすがにいい気分ではない。
まだそのハンバーガーに毒が入っていたと決まったわけではないが。
「で、被害者の帰宅後3人が食卓につき、昼食を食べようとしたところに、被害者の担当編集者である久世広泰という男が訪ねてきたんです。久世と被害者は直ちに応接室の方で打ち合わせを始めました。その間に奥さんと三森のふたりは昼食を食べ終え、仕事に戻りました。約40分後、打ち合わせを終えてダイニングに戻った被害者がひとりで食事をし、直後に苦しみだして倒れたようです。物音を聞きつけた奥さんと三森がそれを発見し、119番通報を。しかし、救急車が到着した時点で既に死亡が確認され、救急の方から警察に連絡されたのが2時50分というわけです」
「被害者は食事も摂らずに打ち合わせに望んだのか」
「その辺りは詳しく事情聴取してみないことにはなんとも。担当編集者の久世氏にも残ってもらっていますので」
「わかった。死因と毒物の摂取元が判明したら連絡させるように指示を頼む」
「はい」
さて――敏野はパンと手を叩く。
では被疑者かもしれない面々とのご対面といくか。
◆
「動機は――復讐です」
鉄格子の填った窓から漏れ入る陽光を背に、被疑者は語った。
「あの男は、わたしのたったひとりの大事な姉を殺しました。さんざん騙して弄んだ挙げ句、酷い振り方をして、自殺に追い込んだんです。それがどうしても許せなくて、姉と同じ方法で殺してやろうと思い、前々から狙っていたんです」
「すると……彼に近付くためにわざわざこのお仕事に」
「はい。その通りです。ただ殺すだけならどんなやり方でも良かったんでしょうが、姉と同じ苦しみを味わわせるためには、なるべく彼の近くにいる必要があると考えたんです」
「では、犯行に使った毒薬は、お姉さんが入手したものを流用したということで間違いありませんか」
被疑者は頷く。実をいうと既に裏は取れていた。2年前に死亡した被疑者の実姉は生前、大学病院に勤めており、医局に保管されていた化学物質を持ち出して自ら服毒した。医局側は盗難に気付き通報したが、彼女の自殺は食い止められなかった。余った毒薬は警察によって回収されたものの、親族である被疑者がその一部をくすねていたことには誰も気付かなかったようだ。
「正直言って、清々しました。あの男は酷い男です。いろいろ調べましたが、姉以外にも何人もの女性を騙していました。正義の味方を気取るつもりはありませんが、あんな男がのうのうと子供たちに夢を売るような仕事に就いているなんて、本当に我慢できませんでしたから」
2
「自殺だなんてとんでもありません。一樹さんは殺されたんです! どこの馬の骨とも分からないような女に!」
激しい剣幕で詰め寄ってくる被害者の妻を宥め、若井が要点を聞き出す。彼は話術に巧みで、聞き上手でもあった。持って生まれた才能だろう、中年の親父が出しゃばるよりもはるかに効率が良いので、こうした場では敏野はほとんど率先して喋らない。
「脅迫状が届いたんです。2ヶ月前と、1週間ほど前に、2度も。お前のような人間のクズが漫画家を気取っているのは許せないとか、偽善者には天罰が下されるとか、そんな酷い中傷の手紙が。あれを書いた奴が一樹さんを殺したに決まっています。早く捕まえてください!」
なかなかの気丈夫だ。化粧気のない顔容にはしかし瑞々しい張りがあり、引っ詰めの髪型も広めの額とその端に掛かる後れ毛を程良くアピールさせていて婆臭くない。26と聞いたが、二十歳そこそこ、もしくはまだ10代といっても通用する容姿だろう。
「脅迫状につきましては、ただいま鑑識の方で指紋等の検出を行っておりますが――」
言いながら、若井が回してきたメモ帳の切れ端には、先程鑑定に回された脅迫状の文面が写されていた。内容は彼女の捲し立てたもので大体合っているようだ。メモの下に小さく「ワープロ字」と走り書きがされている。
「こちらは、届いた時点で警察には?」
「届けていません。ただの悪戯だって一樹さんが言うから。でも、あれからはいろいろ気を付けてはいたんですよ。出掛ける時になるべくタクシーを使わせたり、送られてくる食べ物には用心して手を付けなかったり」
「ファンの方からものを貰ったりするようなことはあるんですか」
「それは――」と、晴美は左隣りに座る男に目を向ける。編集者の久世だった。髪をワックスで固め、黒縁の眼鏡を掛けた背広姿の小男は慌てて手を振る。
「一応、ここの住所はうちでは公開していませんよ。ですから先生宛のファンレターなどは、編集部に届いたものを私が直接持って伺います。食品が送られてくることももちろんありますが、生ものの場合は大抵お気持ちだけ戴いてこちらで処分します。ただ市販品のお菓子などで、ちゃんと包装されているものにつきましては、チェックの上で先生にお渡ししていました。でも、脅迫状が届いたことを伺ってからは、そういったものも一応処分することに」
「脅迫状は編集部の方には届かなかったんですね?」
「ええ、届いていません、一応」
つまり脅迫状の主は、少なくとも被害者の職業と住所、両方を知っていた人物、ということになる。――無論、まだそいつが毒殺犯だと決まったわけではない。
「それで、奥さんは脅迫状の送り主に心当たりがおありですか」
「え? 知るわけないでしょう。なに言ってるんですか!」
怒りの形相を露わにする未亡人に、若井は持ち前の甘いマスクを綻ばせる。
「でも先程、どこの馬の骨とも分からないような女、と仰いましたよね。なぜ女だと?」
「それは――なんとなくそう感じただけです。こんな女々しいもの書くのって大概女でしょ」
「ご主人の近辺にそのような女性の影を感じられたわけですか」
「だから、女なんて知らないって言ってるでしょう! なに、一樹さんが浮気してたとかそういうことが聞きたいの?」
「いえ、とんでもありません」
「そりゃあ一樹さんだって有名人なんだから、過去に付き合ってた女のひとりやふたりいるでしょうけれど、それがなんだって言うのよ!」
分かりやすい女性だ。どうやら被害者の女関係は徹底的に洗わねばなるまい。
「わかりました。では脅迫状の件はひとまず置いておきまして、ご主人の発見時の状況についてお伺いします。発見されたのは奥さんと、それから三森さん」
晴美を落ち着かせるべく、若井は一旦アシスタントの方に話を振る。三森好生は、すらりとした長身の若者だった。油気のないさらさらした長髪を茶色く染めている。敏野の目には少し痩せぎすに映るが、若井なども似たり寄ったりの体型だし、最近はこれぐらいで普通なのかもしれない。
「はい。本当に吃驚しました。打ち合わせが随分長引いているなと思ったら、突然呻き声と椅子が倒れる大きな音がして、何事かと駆けつけてみたら、先生が床で苦しんでいたんですから。救急車に電話はしたんですが、やがて全く動かなくなってしまって。その、毒かもしれないと思うと、人工呼吸とかも躊躇われて。それで、こんなことに」
「お察しいたします」
敏野は頭を下げる。だが、おそらくそれは賢明な判断だっただろう。服毒者への誤った救護行動による二次被害というのはたまに起きる事故だ。
暫く無言で死者を悼んでから、若井が各人の朝から昼食までの詳細な行動について確認を求めた。晴美と三森は顔を見合わせながら、訥々と経緯を語り始める。
阿久津夫妻は朝7時頃起床し、ハムエッグとトーストの朝食を摂ったあと、8時には既に筆を執っていたらしい。9時に三森が出勤し、昼過ぎまで3人は仕事場で本日締切の原稿に取り組んでいた。途中、トイレに立つ以外は誰も部屋から出ることがなかったという。
そして午後1時を回り、原稿に切りの良いところで、ようやく晴美が昼休みを提案した。
「一樹さんがカップ麺でいいって言ったので、キッチンを調べたら、買い置きが1個しかなかったんです。あとはレトルトのカレーがあって、ご飯は炊いてあったからそれでいいか聞いたんだけど、それならコンビニに買いに行くって」
「僕はカレーを戴くことにしたので、結局先生がご自分の分だけを買いに行かれて」
「コンビニというのは、近くなんですか」
「はい。そこの窓から見えますよ」と、三森は背後の出窓を指さす。ブラインドが下ろされていたが、その隙間からマンション敷地の区切りとなる低木の垣根と、特徴的な色遣いの店舗の外装がぼんやりと垣間見えた。「ここは1階ですし、往復でも5分と掛かりません。ですから、僕が代わりに買ってきましょうかって申し出たんですが、先生は自分で行くと言われて」
「成る程。それで、彼の帰りをおふたりはダイニングで待たれた」
「待つっていうか、カレーを温めたり、カップ麺を作ったりしているうちに戻ってこられましたね」
「彼が買われたのは、2リットルのペプシコーラとテリヤキバーガーひとつだそうですね」
頷くふたりに若井が疑問を呈す。
「失礼ですが、男性の昼食としては少なすぎませんか」
「一樹さんは食が細いんです。特に仕事を始めると没頭するタイプで、合間にはほとんど飲食しませんでした。あのシェフテリって結構ボリュームあるから、十分だったと思います」
「シェフテリ?」
「シェフのテリヤキバーガー。あのコンビニのオリジナル商品で、特製テリヤキハンバーグとフォアグラソースとスライストマトのジューシー3段重ねってのが売りみたい。一樹さんすごくハマってて、よく買って来させられてたの」
「ははあ。それは皆さん、ご存じだったんですか」
若井が三森と久世を見る。探りを入れているのだ。
「僕は知ってますよ、もちろん。おいしいからって進められて食べてみたんですけれど、ちょっとソースがくどくって。あまり好みの味じゃなかったな」
「久世さんは」
「ええ、一応。言われてみれば、よく召し上がっていたように記憶しています。取材旅行なんかに連れて行って戴いたときなども、帰路でコンビニに寄った際にあのハンバーガーを買って、店を出端にパクパクと」
「一樹さん……あんなに好きだったのに、もう食べられないんだ……」俯いて嗚咽を漏らす晴美。
と、そこへノックの音が響き、捜査員が顔を出した。若井が立ち上がり、失礼しますと言い置いて部屋を出る。
敏野はメモを確認しながら、彼の代わりに質問を続ける。
「お辛いでしょうが、もう少しだけお付き合い下さい。彼が買われたのはこのふたつとのことですが、切れていたカップ麺などの補充は頼まれなかったんですな」
「え? ……ええ。だってコンビニのカップ麺って、高いじゃないですか。普段はスーパーでまとめ買いするんです」
「では買い物などはいつもあなたの方が」
「ええ。でも、脅迫状のことがあるから、一樹さんも結構用心してたみたい。もともと出不精で外なんかぶらつかないし、用事はなんでも人に頼んじゃうタイプなんだけれど、最近は食品の買い出しによく付き合ってくれるようになったんです。でも、ご飯作ってるときも妙に視線感じたりして、ひょっとしたら料理になにか入れられるんじゃないかって疑っていたのかも」
外見のイメージにはそぐわなくとも、彼女はいっぱしの主婦のようだ。あのキッチンの管理も彼女が行っていると見て間違いないだろう。敏野は質問を切り替える。
「ところで――あなたはご主人のことを、一樹さん、と呼ばれているんですな」
「そうですよ。……いけませんか?」
「いえいえ。ちょっと気になったものでね」
「……もともとそう呼んでいたんです。まだ、夫婦としての呼び方には慣れていなくて」
「まだ?」
「新婚なんです」彼女の目尻から零れた涙が頬を伝う。「1月に結婚したばかりで――まだ半年も経っていないの」
「お気持ち、お察しします」涙を拭う彼女に頭を下げる。どうやら概ね予想通りだったようだ。
次の質問に移りかけた辺りで若井が戻ってきた。その表情は心なしか硬い。肩越しに回されたメモを一瞥し、敏野はソファに腰掛ける彼へ頷きでゴーサインを出す。
「ご主人の死因が明らかになりました。やはり薬物による中毒症状のようです」
「毒を飲まされたってことで間違いないんですか」
「はい。毒はやはりハンバーガーに混入されていたと思われます」
あらためて、室内に衝撃と困惑の空気が満ちる。
所見によると、検出された毒物はパリトキシン。海洋微生物が作り出した強力な毒物だ。水溶性で、熱に強いとある。胃内未消化のハンバーガーから致死量の数倍が検出され、テーブルや床の上に零れたコーラからは反応が得られなかった。また、包み紙を調べた結果、毒物は付着しておらず、紙の中央部――ちょうどハンバーガーを包んだ際に真上にくる辺り――に小さな針穴が見られた。何者かが注射器のようなものを使って、ハンバーガーの中心部分にパリトキシン水溶液を注入した可能性が高い、ということだ。
状況から見て、どうやら自殺の可能性は低くなったようだ。
「なんてこった……やっぱり誰かが先生を」
「どうしてこんなことに――」
「早く」晴美が歯軋りする。「一刻も早く犯人を見つけ出してください」
「尽力いたします」
皆が一様に悲愴な表情を作る中、聴取が再開される。質問の焦点は編集者である久世の来訪後に当てられた。
「久世さんが訪ねてこられたのは、何時頃のことでしたか」
「1時45分です」久世は即答した。今度は『一応』ではないらしい。その決まり文句に加え、話しながら瞬きを繰り返すのが彼の癖のようだ。「もともと2時に伺う予定だったので、ちょっと早く着きすぎたなと玄関前で腕時計を見て思いましたから、間違いありません」
「そして、おふたりで打ち合わせを始められたわけですね」
「そうです。この応接間で」と、自分が座っているソファを軽く叩く。
「それについてお伺いしたいんですが、ご主人は何故打ち合わせの前に食事を済ませてしまわれなかったんでしょう。ハンバーガーぐらいなら数分で食べてしまえると思うのですが」
「多分――タイミングの問題だと思います」晴美が顎に手を当てて答える。「さっきも言った通り、仕事に寝食を持ち込むのを好まない人だから、打ち合わせが始まる時点でシェフテリに手をつける気が失せたんでしょう。中途半端も嫌いだから、久世さんが来られた際に、もし一口でも食べかけていれば、そのまま全部食べてしまったんじゃないかしら」
「では、かなり際どいタイミングだったわけですね」
「あ!」と、急に三森が声を上げる。「そうだ、電話ですよ。先生の携帯に電話があって、あれで時間が」
「電話――ですか」眉を顰める若井。新事実のようだ。「どちらから」
「そうよ! 忘れてた。みんなでお昼を食べようとしたときに、非通知で掛かってきたのよ、一樹くんの携帯に」
「非通知で。お取りになったんですか」
「ええ。それが、無言電話だったんですって。脅迫状の件もあるし、気味が悪いって話をしていて、そうこうするうちに久世さんが訪ねてらして、結局そのまま打ち合わせになったのよ。動転してたわ、こんな重要なことを忘れるなんて」
「僕もさっきやっと思い出したんです」
「きっとあれが犯人からの電話よ!」
「成る程。大変参考になりました」若井は素早くペンを走らせる。「では、久世さんがお見えになってからの皆さんの行動について伺います。ご主人は玄関に久世さんを迎えられて、そのまま応接室の方へ移動されたんですか?」
「いえ――ええと、久世さんを応接室にご案内してから、一旦ダイニングに戻って来るよう言ったんです。その間にキッチンでふたり分のお茶を淹れて、それを一樹くんに持って行かせました」
「お茶を淹れるのにどのくらい掛かりましたか」
「ポットのお湯を使ったので、すぐだったと思います。2、3分です」
「失礼ですが」敏野は口を挟んだ。「いつもそのようなお茶の出し方を?」
「え? そのようなって……」
「ご主人にお茶を出させるやり方ですな」
「それがなにか、いけませんか」
「いえいえ、ただの確認ですよ」来客時のどさくさに紛れてハンバーガーに毒を入れるチャンスがあったかどうかが気になったのだ。
「そのときもうラーメンを食べ始めていたので、気を利かせてくれたんでしょう。先に食事を済ませて、仕事に戻るよう言い残して、一樹さんはダイニングを出て行ったんです」
それが、晴美と三森が健常な被害者を見た最後の機会だったらしい。食事を終えた晴美と三森は客用の出涸らしの茶で一服したあと、指示通りに仕事場へ戻り、執筆活動を再開した。問題は後片付けや茶を飲む際にハンバーガーに触れる機会があったかどうかだが――
「奥さんと三森さんは御一緒にダイニングを出られたわけですね。そのとき、シェフテリとコーラはどのような状態でしたか?」
抜け目ない若井はちゃんと期待通りの質問をした。
「ええと、シェフテリはまだ紙に包まれた状態で、コーラは蓋を開けてコップに注がれていました」
「おふたりは、コーラは飲まれなかったんですか?」
ふたりはこぞって首を横に振り、ああいったジュース類を好むのは被害者だけだった、と答えた。
「では、彼の分には全くお手を触れず、ふたり御一緒に仕事場である書斎へ戻られたわけですか」
「いえ、コーラは冷めるといけないので、冷蔵庫に入れましたけれど」
「ペットボトルですね」
晴美は頷く。しかし、現場のテーブルの上にはペットボトルが置かれていた。つまり被害者がダイニングに戻った際、自分で冷蔵庫から出したということになる。
「仕事場へ戻られてからは、おふたりは部屋を出られましたか?」
「ちょっと。なにを言い出すんですか。まさか僕らを疑っているんじゃないでしょうね」
「犯人はあの脅迫状を送ってきた奴よ」
「すみません。ただの確認です。犯人が外部から侵入して毒を仕込んだとするなら、その機会はおふたりが仕事場へ戻られてから打ち合わせが終了するまでの間ということになります。その間の出来事を詳しく伺っておきたいんです」
「僕は一歩も出てませんよ。晴美さんは――」
三森に振られ、晴美は「一度お手洗いに立っただけよ」と頬を膨らます。
この部屋のトイレは玄関を入って廊下のすぐ左側にある。仕事場である書斎は廊下の突き当たりなので、途中にキッチンへ寄ることは可能だが――
「それは何時頃のことですか」
「憶えてない。三森さんどう?」
「トーン貼りに集中してたもので――仕事場へ戻って暫くしてからということぐらいしか」
「ああ、それなら多分2時15分ですよ」口を開いたのは久世だ。「そのとき私もトイレをお借りしようと思いまして、応接室のドアを開けたときにちょうど隣の、トイレのドアが閉まるところでした。姿は見ていませんが、あれが奥さんだったんじゃないかと。それであとにしようと思って、そのときに部屋の時計を見た記憶があります。あれは2時15分でした」
「わかりました。それで奥さんは仕事場に戻られる際、玄関やキッチンの方でなにかご覧になったり、気付かれたことはありませんでしたか?」
「なにもなかったと思いますけど。あのときに玄関の戸締まりを確認しておけば、こんなことにはならなかったんでしょうか」
晴美は身を震わせたが、敏野は犯人が玄関から侵入した可能性は低いのではないかと考えていた。今時オートロックぐらいで侵入が困難だというつもりはないが、玄関からダイニング内までの床に土足の痕跡は発見されなかった。犯人が玄関で律儀に靴を脱いだとは思えない。ダイニングの出窓からの侵入にも同じことが言えた。
「仕事場に戻られてからも、不審な物音などは聞かれなかったわけですね」
晴美は頷いた。三森も「集中していて、なにも気付かなかった」と申し訳なさそうな顔になる。
「わかりました。では久世さん、あなたはどうですか。奥さんのあとにお手洗いに行かれたわけですよね」
「いや、それが、結局そのときは我慢したんですよ、一応。打ち合わせの方に熱が入ってしまいまして。お借りしたのは打ち合わせが終わって先生がダイニングに戻られてからでした」
「では、久世さんは事件の前には応接間から出られなかったと」
「ええ」
「打ち合わせのあとは、おひとりで応接室に?」
「そうです。今日中に原稿の受け渡しができると伺ったんで、待たせて戴くことに」
「それはしばしばあることなんですか」
「そうですね。しばしばって程じゃありませんでしたけれど、締め切り間近になると」
「一樹さん、担当に見張られてないとラストスパートできない質だから、難産のときは早めに呼ぶようにしてたの。前の担当のときからそう」
「前の担当――と仰いますと」
「最近変わったのよ。久世さんは今年度に入ってからだったっけ」
「ええ。4月からお付き合いさせて戴いております」
「成る程、結構です」
若井が目配せをしてくる。自分の質問は終わった、ということだろう。
敏野は頭の中で情報を整理し、ひとつだけ質問をした。
「三森さんは、阿久津さんのアシスタント歴は長かったんですか」
「僕ですか――いえ。以前からピンチヒッター的には数回来てはいたんですが、実は本格的にこの仕事場にお邪魔するようになってから、まだ1ヶ月ちょいしか経っていないんです。前の人が恐がりで、脅迫状にビビって辞めちゃったみたいで」
◆
「この脅迫状を出したのは、あなたで間違いないんですね」
敏野はビニル袋に入った2通の便箋を取り出して聞く。被疑者は逡巡することなく頷いた。
「はい。これには幾つかの意味がありました」
「お聞きしましょう」
「まずは、事件を外部犯の仕業だと思ってもらうためです」
「外部犯?」
「わたしが憎んでいたのは阿久津ただひとりです。罪もない他の人に疑いが掛かるのは本意ではありませんでした。ですから、なるべく外部から第三者が侵入して毒を仕込んだように見せ掛けたかったんです」
「成る程、ではあの非通知の無言電話も、そして裏庭の靴跡も、架空の侵入犯を作り上げるためのあなたのトリックだったわけだ」
敏野の口振りに、被疑者はくすりとする。
「――ええ。トリックなどと呼べる代物ではありませんが」
「しかし、シェフテリに毒を仕込む機会がいつ来るか分からないというのに、随分とタイミング良く仕掛けられましたな」
「それは、チャンスがいつ来てもいいように準備していたからです。偽の身分証で作ったプリペイド携帯を常時ポケットに忍ばせていましたし、第三者が毒を入れる機会がなるべく増えるよう、あの男や周囲の様々なタイミングを見計らっていました。足跡は3日置きくらいで深夜に裏側からマンションの敷地に入り、こっそり付けていました。苦労の割りには功を奏さなかったみたいですけれど」
確かに、その仕掛けはあまりにもあからさま過ぎて、逆効果だったように思う。
「脅迫状の話を続けてください。侵入犯捏造の他には?」
「ああ――あとはですね、無差別殺人の可能性を消したかったというのがあります」
「ほう」
つまり、何者かがコンビニに陳列されたシェフテリからひとつを無作為に選び、あらかじめ店頭で毒を仕込んでおいた可能性だ。シェフテリは保温ケースのような客の手の届かない場所ではなく、サンドイッチなどと同じ棚に並べられていたため、捜査本部では当然その可能性が検討され、被疑者の狙い通り、被害者へ向けた脅迫状の存在によって否定されていた。
「無差別殺人ならば、被害者は誰でも良かったということになる。そう見做されてはまずかったわけですか」
「これは歴とした復讐ですから、あの男の運が悪かっただけだとは思われたくなかったんです。それに、くどいようですが、それでは罪のない第三者――毒入りバーガーを売ってしまったコンビニやメーカーに多大な迷惑を掛けてしまうことにもなりかねません」
脅威の対象はあくまでも被害者当人だと周囲に知らしめるための脅迫状、というわけか。なかなか考えたものだ。無言電話や靴跡の仕掛けも併用し、警察やマスコミを含めた犯人以外の関係者全員に仮想敵の存在をちらつかせんとする手管には舌を巻くばかりだ。
敏野は被疑者の知恵に感心しながら、確認する。
「当然――もうひとつあるんでしょう、脅迫状を出した理由」
「そうですね。ある意味、最大の理由が」
被疑者は自嘲気味に微笑んだ。
3
科学分析の結果、マンション107号室の外周付近、コンクリートの犬走りの上で不審な靴跡が発見された。ベランダ側の敷地から107号室に近付き、各部屋の窓の外を不規則に往来して、またベランダ側へと去っていく跡だ。まだ新しく、おそらくは犯行前日から当日の間に付けられたものだという。サイズは25.0。溝の形から特定できた運動靴は、どこにでも売られている有名メーカーの安物だった。
「やっぱり偽装臭いですよね、これ」
自分のデスク一面に並べた調書類を眺めながら若井が同意を求めてくる。
「靴跡のある範囲は外部に面した書斎やダイニング、応接室などの部屋の窓の外です。一見すると、垣根を越えて敷地内に侵入した空き巣が窓から室内を物色したかのような痕跡ですが、それにしては107号室周りの犬走りからだけしか靴跡が見付かっていないのが不自然でしょう。靴跡の乱れ方にも作為的なものが感じられますし」
「ふむ。つまり犯人はあの3人のうちの誰かで、靴跡は外部から来た第三者に罪を着せるための偽装工作というわけだな」
「もしくは、カモフラージュか。犯人は自分のいた部屋の窓から外に出、犬走りを通って出窓からダイニングに侵入、シェフテリに毒を仕掛けた。その際にできる靴跡の軌跡を辿られないよう、関係のない窓やベランダも回ってみせた、という寸法です」
成る程、その発想は敏野にはなかった。
「しかし、わざわざ外回りでダイニングに再侵入するなどという危険な方法を試みるかな。日中で人の目はあるし、そもそも被害者がシェフテリをダイニングに放置したのは偶然の出来事だ。上手く毒を仕掛ける機会がなければ、無理せず計画を先延ばしにしそうなものだが」
「ですよね。大体、肝心のダイニング内に靴跡は一切残っていなかったわけです。これが偽装なら、わざわざ窓際で靴を脱いで侵入するのは本末転倒ですし、目立った靴跡が残ることを気にしていたなら、最初から靴なんて用意しません。分厚い靴下でも履いていれば床に痕跡なんてまず残らないんですからね。つまり、これは犯人の仕掛けたミスディレクションなんですよ。レッドヘリングです」
よくわからないことを言う若井。どうせ推理小説用語だろう。彼は根っからの推理マニアだった。
推理――捜査が進むにつれ、そんなものを必要としなければならないほどに、一見単純に思われたこの漫画家毒殺事件は、不可解な様相を見せ始めていた。
まず最初の躓きは、被害者宅の内部はもちろん、マンションの敷地一帯を隈無く調べても、毒物の容器や混入時に使用されたであろう注射器が発見されなかったことだ。
当初は外部犯が持ち去ったのだろうと思われたが、その予想に反し、事件発覚前後の時間帯――久世が訪ねてきてから救急が到着するまでの1時間強――にマンションを出入りした人間がひとりもいなかったことが、ロビーに設置された監視カメラの映像で明らかになった。
平日のため仕事に出て留守である家庭が多いことを見込んでも、ロビー通行者が皆無という状況は多少不自然に思われるが、これは被害者の住む高級マンションに特有な種々の要因――敷地面積に対する部屋数自体の少なさや、核家族中心の住人構成など――に依ってもたらされたものだろう。
加えて夏休みの第1週ということもあり、海外などに家族旅行に出掛けている世帯が3割ほどあったこと、真夏日の炎天下の中、外を出歩く主婦が少なかったことなどが、のちの聞き込みによって明らかになった。ともかく諸々の状況が重なった結果、ロビーは申し合わせたように無人となっていたのである。
無論、ロビーにあるオートロックのドアだけがマンションの唯一の出入口というわけではない。駐車場のある裏側から回り込んで侵入することは可能だし、むしろ、これから犯罪を行おうという人間ならば、監視カメラの前に姿を晒すよりは死角から入ろうと考えるだろう。しかし、ここにもひとつネックが存在した。
マンションの駐車場と道路を挟んだ斜向かいに、件のコンビニが構えているのだ。叙情聴取時、応接室の窓からその外観が窺えたように、コンビニからもマンションの背面、及び107号室側の側面は一望できる。闇が身体を覆い隠してくれる夜間ならともかく、白昼堂々裏から忍び込むには、あのマンションは少々目立ちすぎだった。
これらの状況から、外部侵入犯という案には捜査本部で疑問が呈された。必然的に、容疑の目は当時被害者宅にいた人間、もしくはマンション内にいた住人たちに向けられることになったのだ。
そこで、急遽捜査員が増員され、マンション住人全体に対する聞き込みが行われた。事件から日が経っているので、証拠等の発見には期待できない。主に被害者に対する動機中心の聞き込みである。しかるに、その結果は芳しいものではなかった。
被害者はもとより出不精で外出が少なく、マンション内の自治活動にも自分では滅多に顔を出さなかったようで、その知名度がかなり低かったのだ。よって積極的に住人から恨みを買うような状況も起こりえず、怨恨の対象にはなり辛かった。
脅迫状の線より、女性遍歴の洗い出しも継続中だが、直接事件に関与できそうなマンション住人との関わりについては期待薄だろう。同じマンションに過去に関係した女性の影があれば、多かれ少なかれ問題に発展していた筈である。この方面からの深追いは徒労に終わると思われた。
以上様々な検討の結果、外部犯とも内部犯とも考え辛い状況が発生し始めていた。外部犯ならばマンションへの侵入方法を、内部犯ならば動機を、そして特に被害者宅の3人の中に犯人がいるならば毒の容器の隠し場所やその混入方法を、それぞれに捻出する必要があった。
捜査員たちは各々の持論を誇示し始め、迷走の挙げ句、遂には「他殺に見せ掛けた自殺説」にまで発展した。コンビニでシェフテリを買った阿久津が、外で毒を注射後、容器類を処分し、部屋に戻って自ら毒入りバーガーを食べた、というのだ。
動機としてははストレスによる発作的なものから、保険金目当て、狂言自殺をするつもりが毒の分量を間違えた、などの憶測が飛び交ったが、被害者が纏まった額の生命保険に加入していなかったことが明らかにされるや、有力株になりかけていた「他殺に見せ掛けた自殺説」も潮が引くように自然消滅した。
そこへきて、一層困却する捜査本部にもたらされたのが今回の靴跡の情報だ。やはり外部からの侵入かと捜査員が色めくのも無理なきところだが、落ち着いて考えた結果は若井が指摘した通りである。
「なんにせよ、犯人が捜査の混乱を招くためにわざと不完全な靴跡を付けたとするなら、これは相当な知能犯ですよ」
「まあ意図がなんなのかはわからんが、実際にあの靴跡を付けた者がいるということはだけ確かだ。毒殺犯とは別にしてもな」
「脅迫状や無言電話と同じってわけですね」顔を顰める若井。
鑑識の結果、脅迫状からは犯人を限定できるような情報はなにひとつ得られていない。指紋や皮脂、毛髪、唾液は一切検出されず、使われた用紙やワープロソフトもごく一般に出回っているものだったのだ。こういった代物で痕跡が皆無というのは、
優曇華の花並の珍しさだろう。
一方の無言電話の通話先も、非通知設定のために特定に手間取っていた。最近は個人情報保護法の影響もあり、警察といえど簡単に情報を得られなくなってきている。唯一と言っていい朗報は、発信電波を受けたのが一色町周辺、被害者のマンションに近い地域の基地局であると判明したことだが、この範囲には被害者のマンション自体も含まれており、残念ながらこの情報だけでなにかが特定・除外されるまでには及ばなかった。
結局なにも分かっていないのだ。捜査本部の意向としては、毒殺事件と各種の嫌がらせ行為に関しては切り離して捜査を進める方針を立てざるを得なかったのだろう。
「切り離せって言われても、どう考えたって無関係の筈ないじゃないですか。これは絶対に犯人の攪乱行為です」
「そうは言っても、可能性はひとつずつ潰さにゃならん」
外部からマンションの敷地内に侵入して靴跡を付けるには、オートロックのドアを抜けて裏口の非常ドアから出るか、周りを取り囲む低木の垣根を乗り越える必要がある。靴跡が付けられた前日の夜から、既に調べの付いている朝9時頃までの空白時間に、マンションに近付いた不審者がいないかどうかを調べるのが、当座の敏野たちの仕事だった。
「よし、そろそろ出掛けるぞ」
「ひょっとして、また虱潰しに聞き込みですか」
敏野が頷き、腰を上げかけるや、
栃麺棒(を振り始める若井。
「いや、その前に、もっと内部犯行説を検討した方がいいんじゃないですかね。犯人が靴跡の工作をいつ思い立ったのかは定かではありませんが、仮に被害者がシェフテリを購入したあとだったとしても、当日阿久津宅にいた3人ともに外に出るチャンスはありました。妻の晴美はトイレに立った際、こっそりダイニングを通り抜けて出窓から抜けられますし、また同時に三森も書斎のベランダから出られます。応接間にも窓がありますし、久世は被害者当人と一緒だったわけですから、アリバイなどあってないようなものです」
「しかし、現場検証の際にはどこからも該当する靴など見付からなかったんだ。あの3人には、靴を処分する時間的余裕がなかっただろう」
痛いところを突かれ、若井は黙り込む。
「わしだって内部の人間の仕業だと考えなかったわけじゃない。たとえば三森や久世ならば、被害者の部屋を訪ねる前に靴跡を付け、なんらかの方法で靴を処分することができたかもしれない。だが、あくまで毒殺が犯人の目的だったとして、その段階では彼がシェフテリを買ってくることも、それが放置され毒を仕掛ける機会が訪れるかどうかも予測不可能だ。そんな偽装工作がなんになる。それから――」
敏野は調書の中から靴跡を残すのに使われたものと同種の靴の写真を抜き出す。
「サイズが25というのはどうなんだ。男にしては小さいし、あの3人のサイズとは合わんぞ」
「長身の三森はともかく、小柄な久世ならこれぐらいはけるでしょう。妻の晴美だって、詰め物をすればいけますよ。それに、コンクリートに跡を付けるだけなら、突っ掛けてもなんとかなります」
「拘るな、内部犯に」敏野は苦笑し、励まし代わりに若井の肩を叩く。「とにかく出発だ。文句はあとで聞く」
そうやって半ば強引に連れ出したせいか、署を出てからずっと若井は無言だった。どうやらむくれているらしい。気もそぞろで、ハンドル捌きが荒い。
このまま話しかけずに放っておくのも面白いが、追突でもされたらことだ。敏野は赤信号で停まったところで運転席に問い掛けた。
「なあ、靴の件はひとまず考えるな。あの3人のうちに犯人がいるとして、いったい誰が、どうやってハンバーガーに毒を仕込めたって言うんだ」
「……今のところ、やはり一番怪しいのは妻の晴美でしょうね」
ハンドルに凭れ掛かり、横断歩道を横切る露出度の高い婦人のおみ脚を目で追いながら答える若井。
「トイレに向かう際にダイニングに寄ることが可能でしたし、使用済みの毒の容器や注射器は細かく砕いてトイレに流してしまえば隠滅できます」
「しかし、それではあまりにもあからさまだろう。自分以外に犯人がいないとわかる状況で敢えて犯行に及ぶかね」
「だから、脅迫状や靴跡で第三者の存在をアピールしたんでしょう。脅迫状から指紋などの手掛かりが全く発見されなかったのは、被害者の殺害までを見込んでの下準備だったからです。無言電話も含めたこの一連の行いは、毒殺犯自身の手による偽装工作だからこそ、これほどまでに証拠能力が低いんですよ」
必死な顔を向け捲し立てる若井に青信号を促し、だがな、と反論する。
「それにしては、彼女の証言が変だろう。思い出してみろ、彼女は自分がトイレに立った際、玄関やダイニングの不審な様子を目撃したかとの問いに、否定で答えているんだ。第三者の存在を仄めかすなら、そこで怪しげな人影を見たとでも証言しておくべきじゃないか」
「安易な嘘は逆効果だと思ったんですよ」
「安易な偽装工作はしてもかね?」
「靴跡の件は置いとけって言ったのは敏野さんです」
「まあな。だがわしはあの3人の中では晴美が犯人である可能性は低いと思う。内部犯行説を固持するなら、他のふたりが如何にしてシェフテリに毒を仕込んだか、という謎に焦点を絞るべきだな」
若井が呆れ顔を作る。
「またそうやって女性を庇う。涙に弱すぎですよ」
涙に弱いのは認めるが、今回は違う、と敏野は言い返す。
「まあ、いいですよ。そんなに言うなら三森と久世に絞りましょう。敏野さんはどっちだと思うんです?」
「三森だ」即答する。「直感だがね。あの3人の中で、奴だけがダイニングにひとりでいた時間があるだろう」
「え? ちょっと待ってください。そんなタイミングなんてありましたっけ」
「まあ、厳密には違うんだが――食事のあとだ。晴美が食器を片付け、キッチンで茶を淹れている間、三森はダイニングのテーブルで待っていたんだろう。無論カウンターひとつ挟んだ状態では姿が丸見えだが、晴美が準備に気を取られているうちならば隙はあったかもしれん」
「確かに――けれど、毒を注射するだけの隙ができますかね」
「容器から注射器に毒を移すなどの手間取る準備は、テーブルの下で行えばいい。見られる危険を冒すのはシェフテリに毒を注入するほんの1、2秒だ」
敏野はにやにやしながら嘯く。若井はその表情の意味に気付いたようだ。
「あれ、ひょっとして敏野さん、自分で言っておきながら本当は無理だと思っていません?」
「そう思うかね」
「ええ」知恵熱でも冷やそうとするのか、送風口の向きを変え、暫く沈黙。「……うーん、よくわかりませんが、そのやり方だと、やっぱり三森に容器や注射器を処分する方法がありませんよね。砕いて仕事道具の中に紛れ込ませるのも無理がありますし」
「そうだな。それに、容器類を処分したければ、まどろっこしいことを考えず、トイレに流してしまえばいいんだ。つまり、三森がトイレに近付いていないことが、この推理を否定するなによりの証拠なんだ」
納得したように頷く若井を見ているうちに、敏野は別の奇想を思い付く。
「たとえばだが――三森があらかじめ毒入りのシェフテリを準備してどこかに隠し持っておき、被害者のものと丸ごとすり替えるという方法はどうだろう。これなら時間は掛からず、証拠隠滅も簡単だ。すり替えたシェフテリは、晴美がトイレに行っている隙にでも食べてしまえばいい」
「名推理と言いたいところですが、それは無理ですよ。毒の仕込まれたハンバーガーは当日の午前10時に配送され、昼前にコンビニの棚に並べられたものです。包み紙に日付と時間が入っていますからね。それと同じものを前もって用意しておくことは不可能です」
「被害者の死亡後に、包み紙だけをもう一度すり替えなおせばどうだ。これなら最初に用意するシェフテリはいつのものでもいい。事件発覚後、皆が被害者に注目している隙にすり替えるのは、さほど難しくあるまい」
「うーん、でもそれ、かなりの綱渡りですよね。たとえすり替えに成功しても、今度は手元に残る包み紙の処分に困ります。たかが紙切れではありますけれど、毒が付着している可能性があるんですから、最初のシェフテリと違って食べてしまうわけにもいかないでしょう?」
どうやら今度は若井の勝ちだったようだ。敏野は自説を引っ込めざるを得ない。
やれやれ。やはり、空論を捻り出すのに自分の頭は向いていない。靴底をすり減らす方が性に合っているのだ。
「でも、ちょっと可能性が出てきたんじゃないですか。要はすり替えたものをどう処分するかってことでしょう。そう考えれば、自ずと可能性が絞られてきます」
若井は懲りずにまたなにかを思い付いたようだ。
「そもそも、あのシェフテリ自体に毒が仕掛けられたと考えるから難しくなるんです。犯人は別のものに毒を入れたとすればどうでしょう」
「しかし、現に検死ではシェフテリの中から毒が見付かっているだろう。分量的にも被害者が余計なもの――たとえばシェフテリをふたつぶん食べていた、などということは有り得ない」
「ええ。そう。そこが重要な点です」
言いながら、アクセルを踏み込む若井。やや法定速度オーバーだ。思考とエンジンの回転速度がリンクする質なのか。
「ああ、纏まりました。――おそらく犯人は、工作がばれないよう、あたかもシェフテリに含まれているように見えるものを利用したんじゃないですか?」
「禅問答はいいから、勿体ぶらずに言ってみろ」
「ソースですよ」スピードを緩めつつ、得意気に微笑む若井。「おそらく、シェフテリに使われたものと同種のテリヤキソースか、またはフォアグラソースを久世は用意したんです。そんなものが市販されてはいないでしょうが、全国のコンビニに出回る品です。編集者という立場を利用すれば、手に入れるのは不可能ではなかったと思います。そして久世はそのソースの瓶に毒を仕込み、打ち合わせの間に被害者にプレゼントしたんです」
……成る程。その先は大体読めた。
「シェフテリ好きな被害者は喜び、打ち合わせ後に早速ソースを使おうとします。ここで重要なのは、シェフテリがハンバーガーであるということ。当然、ソースはバンズの内側に掛けないと食べにくい。そこで被害者はシェフテリを包み紙から出し、それを開いてソースを掛けた。これにより、もとのソースと毒入りソースが混じって、あたかも最初からハンバーガーに毒が混入されたような状況になった。つまり実際に毒を混入したのは被害者自身だったわけです」
「しかしな、それだと包み紙の注射痕はどう説明する」
「あれには特に意味がないんじゃないでしょうか。たまたまですよ。紙に穴が開いているなんて、そんなに珍しいことじゃないでしょう」
「ふむ。まあいい。一番の問題は、残った毒入りソースの瓶をいったいどうやって処分したかだろう」
「おそらく、片付けたのは被害者自身だったんじゃないでしょうか。久世はソースを渡すときにこう言ったんです。『これは腐りやすいので、冷蔵庫で保管してください』ってね。被害者はその指示に従い、ソースをかけたあと冷蔵庫に仕舞ったんです。捜査員も、さすがに冷蔵庫の中の一見関係ない調味料の成分までは調べないでしょう。家族だって冷蔵庫の調味料が一本増えようが気付きません。まさに木の葉を隠すなら森の中、実に盲点をついた隠し場所だったわけです。もちろんこれは一時的な処置で、久世はいずれ隙を見て被害者宅を訪れ、瓶を回収するつもりだったんです」
どうだ、といわんばかりに胸を張る若井。
敏野は唸る。
――無論、悪い意味で。
「ご高説のところ悪いがな、被害者がシェフテリを食べる前に瓶を冷蔵庫に仕舞う可能性は低いんじゃないか。そんなに数十分で悪くなるものでもないだろうし、少し掛けて旨かったらもうちょっと掛けたくなるだろう。少なくとも食べ終わってしまうまでは、テーブルに出しっぱなしにすると思うが」
「でもハンバーガーなんてすぐに食べられますし、毒が効果を発揮する前に冷蔵庫に仕舞えば……」
「だったら、コーラのペットボトルも一緒に仕舞う筈じゃないか。コーラをテーブルに出しっぱなしで、ソースの瓶だけ片付けるのは二度手間になる。それに、あの奥さんはかなり几帳面な性格だ。お前の家と違って冷蔵庫の中も綺麗に整理整頓されていた。もし知らない調味料が増えていたりしたら、すぐに気付いているよ」
なおも反論しようと口を開きかけた若井だったが、結局溜め息しか出なかった。
「駄目ですかね」
「駄目だな」
「弱りましたね」
「弱った」
「あの3人の中に犯人はいないんでしょうか。外部犯でも内部犯でも不自然なんて、そんなの考えられないでしょう。こんなのどうすりゃいいんです」
「こういうときに、刑事は足を使うんだよ」
敏野がここぞとばかりに刑事の心構えを語り出そうとすると、いち早く察知したらしい若井はおもむろにウインカーを出し、歩道の向こうに車を乗り入れる。
見ると、そこは見覚えのある外観をしたコンビニの駐車場だった。マンションの近くにあるそれと同じチェーン店のようだ。
「ちょっと休憩しましょう。ここでシェフテリでも買って食べれば、きっとなにか思い付きますよ」
調子のいいことを言って、さっさと車を出る若井。まあ、めげない前向きな姿勢については見習うべきところかもしれない。
照り付ける日差しの下に降り立つと、打ち水でもしたのか黒く濡れたアスファルトの路面が蜃気楼のようにゆらゆら揺らめいていた。掴み所がない――まるでこの事件のように。
◆
「では、保身については余り考えられなかったと」
「はい。最初から、もしあなた方がわたしを名指しで犯人だと疑ってきたら、白状するつもりでいました。わたしには今の生活になんの未練もありませんから」
「しかし――それにしては随分とユニークというか、回りくどい方法を考えられましたね。仮に毒を飲ませるとしても、もっと無難な方法があったと思いますが」
「それは、彼に近付いて直に飲ませるということですか?」
「たとえば、そうですね」
「わたしは、姉と違って社交的なタイプではありませんでしたから。あの男に取り入り、油断させて毒を飲ませるなんて、そんな器用なことはできないと思ったんです」
今まで涼しい顔だった被疑者に感情の色が籠もる。
「そうでなくとも、顔を合わせるたびに殺意が膨れあがりました。それがいつばれるかと、毎日冷や冷やしていました。とてもじゃありませんが、わたしの手渡した毒の入った食べ物を素直に食べてくれるとは思えなかったんです。この方法をとって正解でした」
「そうでしょうかね」
「え?」
「私には、これは大変危険なやり方だったと思えます。毒殺というのは、ともすれば狙った人物以外にも甚大な被害を及ぼしかねないものです。いくら緻密な計画を立てたとしても、それは完全ではない。無論、他の殺人方法を肯定するわけではありませんが、あなたがご自分の復讐心を満足させるためだけに罪なき人間たちを死の境界に晒したことは、最低最悪の行為であると言わざるを得ません。まあ、お姉さんの死を受け止めてきたあなたには、釈迦に説法というものかもしれませんが」
「そうですね。誰がどう評価しようと、わたしはただの薄汚い殺人者です。阿久津と同じ立場どころか、はるかに堕落している。彼の親類からは一生恨まれ続けることでしょう。――本当は死のうとも考えました。毒もまだ残っていましたから。でも、死ねなかった。ひょっとするとこのまま捕まらずに済むのではないかと、そんな希望を抱いてしまったのは否定しません。ここまでしておいて、罪から逃れようとした。身の程知らずもいいところですね。本当に、愚かだ。救いようがない」
淡々と言葉を紡ぐ被疑者の瞳は潤んでいたが、最後まで涙が零れることはなかった。
4
「なぜシェフテリに毒を入れたのか?」
一色町へと向かう車中、若井が頭を抱える。
「さっぱりわかりませんよ、敏野さん。本当に犯人の見当が付いたんですか」
「ああ」敏野は頷く。
「物証も?」
「それはない。だから、任意同行で引っ張るしかないな」
どうやら、今回ばかりは若井のやり方が正しかったらしい。彼がコンビニで買った熱々のシェフテリを頬張った瞬間、敏野の脳裏に全ての謎を合理に導く解が閃いたのだ。
コンビニやファーストフードなどついぞ利用したことがなかったが、そういった若者文化もおいそれと馬鹿にしたもんじゃない。敏野は心からそう思った。
「しかし、逮捕状なしでいきなり押し掛けて、素直に言うことを聞いてくれるんでしょうか」
「俺の勘じゃ、な。犯人が無意味な抵抗を見せるとは思わん」
「しかし、僕にはさっぱりですよ。なぜシェフテリに毒を仕掛けたか、と言われても、そこにたまたまシェフテリがあったから、としか答えようがない」テリヤキソースの付いた指を舐め、シートに身を沈める。「犯人が注射器を用意したのは、対象物がどんなものであろうと毒が仕掛けやすいように、という思惑からだったんでしょう。それともなんですか、毒を仕掛けるのはシェフテリでなければならなかったんですか。だから注射器が必要だったと?」
「まあ、そうとも言える。我々は根本的なことを見落としていたんだ。考えてもみろ、テーブルの上にはシェフテリの他にコーラの注がれたコップがあったんだ。パリトキシンは水溶性だし、コーラのような濃い飲み物なら味も誤魔化せる。もし俺が毒を仕掛けるなら、まずこのコーラを選ぶだろう。にも関わらず犯人はシェフテリに毒を仕込んでいる」
「それは、コーラじゃ確実性に欠けると思ったんじゃないですか。この季節に暫くコップに注いだ状態で放置したら、温くなるうえ、炭酸も抜けてしまいます。被害者が飲まずに捨ててしまう可能性があると考えたんでしょう。温いコーラほど不味いものはありませんし」
「ふむ、温いコーラは捨てて注ぎ直すか。じゃあ温いハンバーガーはどうする?」
「え、そりゃ温めなおすでしょうけれど、それが――」
若井の声が不意に途切れる。目の前の信号が黄色に変わり、彼は急ブレーキを踏んだ。
「おい、気を付けろ」
「すいません。でも、まさか……そんなことが? 犯人がシェフテリを選んだのは、それが確実に毒を仕掛ける方法に繋がっているからだったと……」
若井は自分の考えを反芻するように何度も頭を揺らす。そして、
「――電子レンジですね、敏野さん」
核心を突いた。敏野は無言で先を促す。
「犯人は被害者を操って、彼自身に毒を仕掛けさせたんです。打ち合わせのために40分放置されたシェフテリは、確実に冷めてしまっています。当然、阿久津氏はシェフテリを食べる前に、それを電子レンジで温めた。それこそが犯人の目論見だったんです。あの脅迫状や靴跡の工作に深い意味はなかった。あれは、唯一必要だった無言電話を脅迫行為の一環だと思わせるためのカモフラージュなんです。犯人は被害者がシェフテリを食べる時間を無言電話で遅らせることで、彼があとから電子レンジを使うように仕向ける必要があった。つまり、その電子レンジこそが犯人の用意した凶器に他ならない」
……なに?
「当日の朝食はハムエッグとトースト。昼食は奥さんがカップ麺で三森氏がレトルトカレー。そのどれにも電子レンジは使用されませんでした。また、この状況は至極平易に予測できます。だから犯人は前もって電子レンジに毒を仕込むことが可能だった」
「ちょっと待て。電子レンジ自体に毒を仕込んだのか?」
「そうですよ、敏野さんも同じことを思い付いたんでしょう、あのスチーム式の電子レンジを使った恐るべきトリックを」
スチーム式? 脳裏に浮かぶあの変わった形の電子レンジ。あれがスチーム式なのか。
「通常のレンジは電磁波で対象を振動させて加熱するんですが、スチーム式は蒸気も併用して温めるんです。犯人はそのスチーム用の水のタンクに毒を仕掛けておいた。この方式では食品が乾燥しないため、阿久津氏はシェフテリを包み紙から出して、直接温めたんです。そのため、包装紙に毒の成分は付着せず、蒸気を介してシェフテリだけが毒入りバーガーに変化した。かくして、犯人は阿久津氏に近付くことなく、阿久津氏自身に毒を盛らせる離れ業に成功したんです。そして、前もってそんなことがができたのは、ただひとり。被害者の妻――晴美だけです」
彼が犯人の名を挙げたとき、ちょうど車が被害者のマンション駐車場に乗り入れられた。
ベランダ越しに覗く、主のいなくなった一階端の窓には、明かりが点っていた。あの部屋は仕事場だ。遺作となる原稿をアシスタントたちが仕上げているのだろう。見ると、若井がバックで駐車した来賓用スペースには、久世のセダンや三森のバイクも停められている。
無言のまま車を降りる。若井と目が合った。
そのまま暫く無言で対峙する。
「……あの、なにか言ってくださいよ」焦れたように口を開く相棒。「そんな、睨んでないで」
「本気か?」
「え? いやまあ、本気も本気ですが。無茶ですかね」
「無茶だろう。あの電子レンジについては知らなかったが、スチームなんかに毒が仕掛けられていたら、温め後に扉を開けた途端に毒の蒸気を吸って死んでしまうぞ。それに、捜査員はちゃんと電子レンジも調べていた。毒が仕掛けられていたとするなら、レンジ内の毒物反応に気付いて報告している筈だ」
「それは、まあそうかもしれませんけれど。でも、珍しい毒なんですし、その場では気付かないかも」
しどろもどろになる若井。どうにも付き合いきれない。
「やれやれ……そのアイデアをおまえが捜査本部で出さなくて良かったよ。コンビ解散を願い出るところだ」
「そこまで言わなくても。じゃあ、電子レンジは関係ないってことですか?」
「いや、電子レンジは関係がある。だが、考え方はもっと単純なんだ。シェフテリは、おそらく電子レンジの中で毒入りのものとすり替わったんだよ」
「は? すり替わった、ですって?」
「そうだ。犯人はあらかじめ注射器で毒を仕込んだシェフテリを用意しておき、それを阿久津の買ったシェフテリと丸ごとすり替えただけなんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください」若井は敏野の歩き出した方向を見て、慌てて声を掛ける。「敏野さん、どこへ行くんですか! 大体それ、さっきの三森犯人説の焼き直しでしょう」
「違うよ。いいか。犯人が脅迫状なんてものを書いた最大の理由は、食べる本人が警戒心を出して自ら買い物に来る機会が増えるからだ。被害者は出不精だからな。もし代理の人間が被害者の食べ物を買いに来ても、それを被害者が食べるかどうか犯人には判断できなかった。だからわざわざ警戒させて、自分で自分の食べ物を買わせるよう仕組んだ。それに、脅迫状がなけりゃ、無差別犯と見なされる可能性がある。そうなると、最も毒を仕掛けやすい立場にいる自分が真っ先に疑われる。犯人としてはそれは避けねばならんだろう」
「あの、なんだかよくわかりませんけれど、でも毒入りのシェフテリをすり替えるなんてこと、奥さんにも他のふたりにも……」
「おいおい。被害者がシェフテリを温める機会は、死亡時刻の直前だけじゃないだろう。彼はもともと、すぐに食べるつもりであのシェフテリを買ったんだ。とすれば、当然温めて貰っただろう、その場で。犯人は阿久津の姿を確認した時点で、さりげなく毒入りのシェフテリを準備し、いくつかある電子レンジのうちのひとつの中、隅っこにでも隠しておけばいいだけなんだ。死角の中ですり替えるのは非常に容易い。もし当てが外れ、シェフテリが選ばれなかった場合、あるいは運悪く同僚に先に発見されてしまったとしても、毒入りバーガーは残飯になるだけだ。そのときは諦めて、次の機会を待てばいい。タイミングさえ合えば、数回のチャレンジだって不可能じゃない」
敏野は呆然としたままの若井を待たずしてさっさとコンビニに入ると、カウンターに立つ店員の名札を確認し、警察の者だと名乗った上で、彼女に向けて言った。
「任意同行をお願いできますか?」
06/08/14