DONKEY KONG


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ドンキー・コング



 その日――。西野動物園は、てんてこ舞いだった。
 新任警備員の中丸信夫が、他殺体で発見されたのである。
 中丸は、中央ブロックの鍵保管庫内の床で俯せに倒れていた。死因は後頭部の打撲による脳出血。凶器は保管庫に常備されていたスコップで、遺体のすぐ側に落ちていた。()からは複数の指紋が採取されたが、どれも職員のもので、犯人が手袋をしていた可能性もある以上、それが容疑者の絞り出しに貢献することはなさそうだった。
 そこで、警察は別の物証に目を付けた。彼が右手に握っていた、動物の(おり)の鍵である。
 中丸と犯人は激しく争ったらしい。保管庫内にはその痕跡が残っており、その際に机の上に乗っていた鍵箱が床に落ち、中央ブロックの各動物の檻の鍵が床に散乱した状態だった。
 殴り倒されてから暫くして、中丸は一旦息を吹き返したと見られる。朦朧とした意識の中で、彼は腕を伸ばし、散らばった鍵のうちの一つを握りしめた。無論、偶然掴む形になっただけなのかも知れないが、それが犯人を指し示すダイイングメッセージである可能性は十二分にあったのである。

 1
  
「で、彼が握ってたってのが、ゴリラの檻の鍵だったわけよ」ニホンザル担当飼育員の坂崎秀美は、そう言って巨峰ハイを一口飲んだ。「さる筋の情報によるとね」
 某有名フランチャイズの居酒屋店内である。二十人は座れる大きなテーブル席の一角に、当直だった職員の中でも仲が良い数人が、お疲れ会と中丸の追悼会を兼ねて集まっていた。
 店内は小部屋に区切られているわけではないのだが、周りの喧噪が防音壁のような役割をして声は響かず、酒が入ったせいもあって、少々物騒な話題にも余り抵抗がなくなってきている。
「サル筋って、もしかして自分のことか? 洒落てんじゃん、サルちゃん」
「やかましい。サルちゃん言うな!」左隣で軽口を叩く守川(もりかわ)誠二を睨み付ける秀美。非常に不本意なその渾名(あだな)で呼ばれるのは、いい加減もううんざりである。「それに、つまんねーし」
「おお。サルとサル筋を掛けたこの俺のハイソなジョークをちゃんと理解しているとは、さすがサル……秀美ちゃん。ちゅぅしてあげよう」
「うわ。え、遠慮。寄るなボケ! カバっ!」
「おうよ。ヒポちんは俺の守護神だもんね」仕返しでカバ呼ばわりされても全く応えない。守川のカバ好きは園内でも有名である。もちろん、彼の飼育担当動物はカバだった。その中の一頭が「ヒポちん」ことヒポ太である。
「こら、ちょっと離れろって、もう、変態!」
「ま、守川の酔っぱらいは放っとくとして、だ」アムールトラ担当の折原(おりはら)幸夫が、二人のやり取りを横目で捉え、話を元に戻す。「波多野(はたの)さんが警察に連れて行かれたのは、そういうわけだったんだな」
「だろうね」
「何だよ。二人で会話するなって。全然わかんないんだけど、俺」と、拗ねたような声を出す守川。
「だからさぁ、波多野さんの担当がニシローランドゴリラじゃん」
「ほう。それがダイイングメッセージってわけか」秀美の溜め息混じりの説明に、守川は首を傾ける。「でもよ、だったらサル担当のお前だって当てはまるだろ。ゴリラもサルも似たようなもんだし」
「何それ。飼育員とは到底思えない発言だね。一応弁解しとくと、ニホンザルの檻の鍵もすぐ近くに落ちてたってさ。もちろん、カバもトラもキリンもあった。その中で、中丸さんがゴリラの鍵を握ってたから問題になってんじゃん」
「だからって、決めつけは良くないぞ。あれは鍵に動物の名前が書かれた木のプレートが付いてるだろ。鍵、木、もしくはプレートに関係するメッセージかも知れん。あ、檻の鍵だから、「折」原が犯人ってのはどうだ」
巫山戯(ふざけ)んな。大体、そんなことを言い出したらキリがないだろう」
「まあ、確かに。しかし、波多野のおっさんも気の毒になぁ」言って、守川はトイレに立つ。
 ようやく彼のちょっかいから解放され、食欲が戻った秀美はサイコロステーキの皿に箸を伸ばした。「でも、確かに警察も横暴だよね」
「……そうかな」と、口を開いたのは松本(たもつ)だ。担当動物はアミメキリン。「いくらなんでも、波多野さんがニシローたちの担当だったってだけで、任意同行なんかされるだろうか」
 ニシローというのは、(くだん)のニシローランドゴリラの雄の名前だ。まるで守川が付けたかのような、おざなりなネーミングである。
「どういうこと?」
 松本は、右隣の折原の更に右に座っているため、小柄な彼の顔を捉えるために、秀美はテーブルに半身を乗り出さなければならない。
「つまりさ。警察も馬鹿じゃないんだし、ダイイングメッセージがゴリラだったから、それじゃあゴリラ担当者が犯人だ、と決めつけはしないだろうってこと」揚げ出し豆腐の上に乗った薬味を落とさないよう慎重に口に入れる松本。暫く黙ってもぐもぐと顎を動かし、水割りと共にごくりと飲み込んで、「きっと別の理由があるんだと思うね」
「別の理由っていうと」
「そう。例えば……」
「例えば?」
「いや。やめとこう」松本はチャックの代わりにグラスで口に栓をし、それきり黙ってしまった。
「何だよ、思わせぶりだな」折原が松本の肩を叩く。「俺が代わりに言ってやろうか」
「え、折原さん見当付いてるんだ」
「まあな」秀美に流し目を送る折原。斜に構える、というのだろうか。彼は良くこの角度で人を見つめる。「というか、最近で問題になりそうなのは、あれしかないだろ」
「あれって」
「例の、運営資金の盗難だよ」
「――あ。そうか」
 西野動物園の運営費の一部が消えた、との正式な通達があったのは、ちょうど二日前の朝礼時だった。園長の話では、被害額は約五十万で、前夜に園長室の机に仕舞っておいた封筒から持ち出されたとのこと。発見したのは園長自身。彼が夜食を買いに出かけ、四十分程して戻ってみると、室内が酷く荒らされ、金は既に足りなくなっていた。園内に面した窓ガラスが割れていたため、犯人はそこから侵入、逃走したと思われた。
 驚いた園長は直ちに警備員の中丸に連絡し、急遽、運営費及び犯人の捜索を始めた。西野動物園は北側半分が山林に面しており、南側からしか出入りできない。よって、門の管理さえしっかりしていれば、外部から侵入するのは至難の業である。案の定、正門の戸締まりや警報装置に異常は見られなかった。もし外部の人間が犯人ならば、閉園時間まで園内のどこかに隠れていて、犯行に及んだのだろう。そして、盗難があってからあまり時間が経っていないため、犯人はまだ園内に潜んでいる筈だ。園長はそう判断し、中丸ほか数名の警備員と共に、園内を見回ったのである。
 結果、犯人は見付からなかった。これは、(いささ)か困った事態なのである。
「盗難犯人は内部の人間である可能性が高い。現に俺たちは、散々疑われたわけだ」
 その日、当直として園内に泊まり込んでいた飼育員というのが、ちょうど今日ここに集まっている顔触れだった。秀美たちはすぐに呼び出され、荷物のチェックを受けた。身体検査までされ、徹底的に調べられたのだ。
「あれはムカついたね。思い切りプライバシー侵害しといて、謝りもしないんだから。園長のハゲが。大体、たかが五十万じゃん」
「そうだよな」と折原。ジャンボチョリソーをナイフで細かく分割しながら、「運営費は三百万ぐらい入ってたんだろ。犯人は、どうして全部盗らなかったんだ?」
「欲がないんじゃない。ほら、義賊みたいな奴。必要最小限しか盗まないのがモットー」秀美は横からチョリソーを奪えないかと隙を伺う。
「三百万の札束見て六分の一で我慢しようなんて考える聖人君子みたいな人間とは、正直言ってつきあいたくないな……あ、こら」
「いただき」奪取成功。「折原さんが可哀想だから、六分の一で我慢しよう」
「あのな」
「多分、大事(おおごと)になるのを恐れたんじゃないかな」松本がぼそりと言う。
「ま、それはあるかもな。現にあの段階では園長も警察沙汰にはしなかったわけだし。結局盗難の件は話したのかな、園長」
「話したと思う。さっきも言いかけたように、無関係とは思えないからね」
「そうそう、話を戻そうよ」秀美は巨峰ハイを飲み干し、折原に向く。「盗難と波多野さんの任意同行に関係があるって、どういう風に?」
「ああ、聞きたいか」
 秀美はうんうんと頷く。
「言っとくが、酒の席の余興だからな」
「わかってますって」
「つまりな、盗難犯人が中丸だと考えるわけだ」
「ふんふん……えぇ!」
「そいつはまた、随分突拍子もない意見だな」と松本。
「何だ、お前が考えてたのって、このことじゃなかったのか?」
「いや。まあとにかく、折原探偵の意見を拝聴しようか」
「ああ。要するに殺人犯は外部の人間で、中丸と組んで運営費を盗む計画を立てていたんだ。警備員が手引きすれば、侵入は容易いだろ。いや、そいつは侵入すらしなかったかもしれん。運営費を中丸が盗みだし、門の柵越しに共犯者に手渡す。園内をいくら探しても出てこないわけだな。とっくに持ち出されていたんだから」
 成る程。一理はあるように思える。しかし、秀美はすぐに矛盾点に気が付いた。
「でもさ、折原さん。だったら尚更、五十万しか盗まなかったのは変でしょ。残らずごっそりと持ってかなきゃ」
「そこだよ。中丸は失敗したんだ。何があったか詳しいことはわからんが、思惑叶わず五十万しか盗めなかった。だからこそ、共犯者と仲間割れが起こり、結果、彼は殺されてしまったのさ」
「成る程。で、波多野さんとの関係は?」
「さっき外部の人間と言ったが、事件当夜、園内にいなければ、それだって外部の人間と呼べるだろう。波多野はあの夜、非番だった」
 どうだ、と言わんばかりに眉を上げる折原。
「つまり……波多野さんがその共犯者だと?」
「辻褄は合うだろ。盗難のあった夜に園外にいて、中丸が殺された夜に園内にいたという条件に合う関係者は彼ぐらいのもんだ。ダイイングメッセージも説明が付くしな」

 2
  
 それなりに論理的だった。秀美は納得を頷きで示し、松本に視線を向ける。
「面白いね」彼は悠然とグラスを傾けた。「なかなかいい。でも、疑問点はあるな」
「ほう。聞きたいね」
「まず、動機の弱さだ。全額盗むのに失敗したとはいえ、盗難自体は成功したんだから、それで良しとするのが普通じゃないかな。運営費狙いなら、再度の――まあすぐには無理だろうけど――チャンスもあるだろうし。仲間割れして、園内での殺人にまで至ってしまうような状況だったとは思えない」
「そりゃ、何か切羽詰まった理由があったんだろ。借金の返済期日が迫ってたとか」ぽいぽいとチョリソーを口に放り込む折原。
「まあ、いまいち釈然としないけど、それはいいとしよう。衝動殺人はいかなる場合にも起こりうるからね。気になるのは、役割分担なんだ」
「役割分担?」
「もし波多野さんと中丸さんが組んだなら、役割が逆だと思うんだ。中丸さんはまだここに配属されて日がないから、いくら警備員という立場だとしても、園内や事務棟内の詳細には明るくない。一方で波多野さんは古参の飼育員だ。園内の隅々まで――自分の担当以外の檻なんかでも詳しく熟知している」秀美に視線を向けてくるので、頷いてみせた。確かに、彼は園内の地理には詳しい。ニホンザルの猿山に、サルたちが掘った、宝物庫とも呼べる秘密の小さな空洞がある、などと担当飼育員の秀美ですら気付かなかったことも知っていたりする。
「だから、もし」松本は続ける。「二人が組んで折原の言う盗難計画を実行するなら、園内で実際に運営費を盗み出す役を波多野さんが行い、中丸さんは休みを取って、外で金を受け取る役に回るのが自然だ。そうじゃないか?」
「そりゃ、その」口に入れたチョリソーの断片の一つに、唐辛子の利きまくったシシケバブが混じっていたかのような顔になる折原。「まあ、確かに言われてみればそうだが」
「もちろん、これも色々な背景が考えられるだろうから、必ずしもそうとは言えないけれど、これは蓋然性の問題だからね」
「わかってるよ」自慢の推理を覆され、折原はぶっきらぼうな口調になる。胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本抜き出してライターで火を付けた。「じゃあ、あれか。お前はもっとすごい仮説を立てたんだな」
「別にそうは言ってないけど。君が勝手に始めたんだ」
「まあまあ、折原さんも松本さんも」なにやら不穏なムードに傾きつつある場を何とかしようと、秀美は立ち上がり、二人の間に割って入った。
「ここはひとつ、この秀美クンの超絶推理を聞きなさいって。あ、お姉さん。夏みかんハイと水割り二つ」通りすがった店員に自分と折原たちの酒を注文する。「つまりね、無理矢理にその二人を犯人扱いするから駄目なわけよ。波多野さんは言うに及ばずだし、中丸さんだって、盗みをするような悪い人には見えないでしょ。そりゃ付き合いは短いし人柄もよく知らないけど、歴史とかに詳しくて、ほら、横山光輝の本貸してくれたりしたし、いい人じゃん」
「別に中丸の人間性について議論してるつもりはないが」煙をこちらに向けて吹き出す折原。秀美が露骨に迷惑顔を作ると、彼は、悪い、と謝って灰皿で煙草を揉み消した。
「とにかく、二人ともシロだとするんだよ。そうすると、一体なぜ波多野さんが警察に連れていかれたか、という謎が残る」
「振り出しだな」
「そこで考えてみる。警察には目を付けられるけど、犯行に直接は関係ない行動を波多野さんがとったとしたら?」
「直接関係ない――何だよそりゃ」
「つまり……例えば犯人を庇うとか、そういうこと?」
「さっすが松本さん」後ろから彼の肩をばんと叩く。その拍子に食べていたキムチクッパが気管支に入ったのか、ごほごほと噎せる松本を無視して秀美は続ける。「そうそう。偶然か否か、波多野さんは犯人を知ってしまった。その犯人が彼にとって大事な存在だったから、犯行の後始末をしたり、匿ったりした。だから警察に怪しまれた。どう?」
「どうって……じゃあその犯人は誰なんだよ」
「彼が最も愛していた存在」
「だから、それは誰なんだって」
「わかんないかなぁ。ほら、ベイカー街の殺人」
「ベイカー街?」
「それを言うならモルグ街だよ、坂崎くん」コップの水を飲み、ようやく咳が(おさ)まった松本が真っ赤な顔で言う。「いくら何でも、そりゃ無理だろ。――ニシローが犯人ってのは」

 3
  
「ニシローが何だって?」
 背後から声が掛かる。守川が戻ってきたのだ。
「秀美ちゃんの超絶推理だとよ」揶揄(やゆ)するような口調で答える折原。
「正確には、ニシローに限ったわけじゃないよ。まあ、ゴリラのうちの誰かには違いないだろうけど」秀美は守川に先程までの内容を話す。
「ふーん。でもそれって、バレないかな」
「だから、バレないように波多野さんが後始末をしたんだって」
「アホらしい」折原が言い捨てる。
「なんでよ。ゴリラが犯人なんて、意外性抜群じゃん」むっとして秀美は言い返す。
「意外性しかないだろ。大体、動機は何だよ」
「動機なんてないよ。ニシローは自分の身を守っただけ」
「保管庫まで脱走してきてか?」
「だから、脱走なんてしてないわけ。現場は保管庫じゃなくて、ゴリラの檻の中なんだよ。中丸さんは檻に入ったから、ニシローに襲われたんだ。波多野さんはいち早くそれに気付いて、何とかしなきゃって思った」
 人を襲った動物は屠殺(とさつ)される。波多野はそれを恐れ、中丸の遺体を保管庫に運び、偽の凶器を仕立てて、そこで襲われたように見せかけたのだ、と秀美は得意気に説明した。
「何故、中丸はゴリラの檻に入る必要があったんだ?」
「それはわかんない。けど、きっと何かを見付けたんだと思う」
「何かって……」
「例えば、お金とか」
「おい」守川が咎める。「まさか、運営費を盗んだのもニシローだなんて言うつもりじゃないだろうな」
「確証はないけどね。園長室は荒らされてたって聞いたけど、運営費が目的だったら、そこまで散らかす必要はないでしょ。それに、全てのお金を取らなかったのも、ニシローの気まぐれなら説明が付くし」
「しかし、いくら何でも動物が侵入したらわかるだろ、一目見て」
「内々に処理したから、現場は園長と中丸さんしか見てないでしょ。あのずぼらな園長は気付かなくてもおかしくない。でも、中丸さんは後からピンと来たとすれば……」
「面白いな」松本が呟いた。「確かに」
「でしょう」
「一つ重要な質問がある。どうして遺体を運んだ場所が保管庫なんだ。檻の外なら、どこでもいい筈だろう。ゴリラの檻から保管庫までは、かなりの距離がある。近場の、例えば噴水の辺りに寝かしておいた方が、それっぽく見えるし、楽だと思うけれど」
 松本の意見に、秀美は微笑んだ。
「そこだよ。そこがこの推理の一番の見どころ。いい? ニシローに襲われたとき、中丸さんは当然、あるものを持っていた筈だよね」
「懐中電灯」答える守川。
「それじゃなくて」
「じゃあ、警棒」
「うちの警備員は持ってないでしょ、んなもん。だから、本当の殺害現場がゴリラの檻だと証明できるものだよ」
「――ゴリラの檻の鍵、か」折原が悔しそうな表情をする。秀美の言いたいことがわかったようだ。「死後硬直だな」
「正解。あれは、ダイイングメッセージなんかじゃなかったんだ。でも、波多野さんにとっては厄介なものだった。中丸さんの遺体を移動させても、鍵をそのまま持たせておいたら、ゴリラの檻にいたことがバレてしまう。でも、発見時には遺体の指が硬直していて、鍵を奪うことができなかった。だから、鍵保管庫に遺体を運んで、他の鍵をわざとばらまいて、殺害時にその中の一つを苦し紛れに握ったように見せかけたんだよ」

 4
 バイトの店員が、先程注文した酒を運んでくる。守川は自分の分がないと知り、すかさず注文を入れたが、残念ながらオーダーストップとなってしまっていた。
 そりゃないぜ、という顔の守川の前でおもむろに水割りを傾けた松本が、さて、と口を開く。
「――そろそろ一様の結論を出そうか。まあ、どちらにしろ推測に過ぎないわけだけど」
「結論?」
「ああ。坂崎くんの意見は面白いが、ちょっと無理があるから置いておくとして……」
「ちょっと待ってよ。どこに無理があるの。そりゃ、盗難犯がニシローってのはちょっと飛躍してるとは思うけど」眉を寄せる秀美。
「沢山ある。そもそも、死体を移動したことは調べれば簡単にわかるんだよ。死斑って奴でね」
「だから、警察にバレて波多野さんは連れて行かれたってことでしょ」
「じゃあ聞くけれど、ゴリラの檻の鍵を中丸さんが握ってしまっていたなら、死体を移動した際に、波多野さんは一体どうやって鍵を閉めたんだい? ゴリラの檻の」
「え。えっと……それは、その。あ、マスターキー! 保管庫にはマスターキーもしまってある筈でしょ。全部の鍵が束になった奴。あれを使って閉めたんだよきっと。その為にも、保管庫に行く必要があったんだ。うん」
 松本は珍しくニヤリと笑う。「じゃあ、そもそも何故、中丸さんはそのマスターキーを持ってゴリラの檻に行かなかったんだ? 警備員なら普通はそっちを使うだろう」
「ええと……重かったからとか。何でも考えられるじゃない」
「随分必死だね、坂崎くん。そんなにゴリラを犯人にしたいのかな」
「ど――」意外なことを言われ、思わず狼狽(うろた)える。「どういう意味?」
「ゴリラのせいにすれば、誰も疑われなくて済む。無意識にでも、それを狙っているのかな、と思ってね。まあいいや。俺が言いたいのは、警察の判断は余り疑ってかかるものじゃないってことだ。初動捜査は結構慎重なものだよ。彼らがそう言うんなら、現場はまず間違いなく保管庫だ。じゃあ何故保管庫なのか、これが重要なんだ。警備員の中丸さんが保管庫にいるのは問題ない。マスターキーが保管されているからね。ならば犯人は、中丸さんが保管庫にいるのを知って、そこを襲ったのか?」水割りを一口。「……いや、現場には争った跡があった。待ち伏せてスコップで後頭部に一撃という殺害方法をとった割には、実際の現場は荒れ過ぎている。自分で凶器を用意しなかったのも変だしね。つまりこれは、衝動的な犯行なんだ。犯人が先に保管庫にいた。そこに中丸さんが現れ、争いになり、犯人は咄嗟に立て掛けてあったスコップで殴ってしまった。その形の方が自然だろう」
「成る程な」折原が頷く。
「だから、何なの」秀美は聞いた。
「だから――犯人が保管庫にいた目的は何か」ゆっくり、はっきりと彼は発音する。「それが考えるべき最も重要な点となるんだ。そして、その疑問点に至れば、答えは明白だ」
「檻の鍵か」守川がいう。「そうだろ?」
「その通り。犯人は鍵を取りに来ていた。それを中丸さんに見られ、誤魔化しきれず、(ある)いは口封じのために犯行に及んだ。これが最も自然だ」
「犯人が鍵を取りに来た理由は?」
「当然、人に言えない理由だろうね。例えば、運営費盗難の関係とか。ここからは完全に妄想になるんだけど、犯人が盗んだ金をどこかの檻の中に隠したとしたら? それを回収するために、深夜にこっそり鍵を取りに来たんじゃないか?」
 周囲の喧噪が静まっていくような気がした。まるで自分たちの周りだけ、時が止まっているような――
「あの」秀美は思わず口を開く。「それができるのは、状況的に、飼育員だけなんだけど」
「そうさ。だから最初に言うのを躊躇(ちゅうちょ)したんだ」
「で、誰なんだ」折原がごくりと喉を鳴らす。「俺か、守川か、秀美か。まさかお前自身ってことはないだろうな」
「それは、わからない」拍子抜けするほどあっさり、松本は答えた。「ただ――答えをあのダイイングメッセージが示しているとしたら?」
「じゃあ、やっぱり波多野ってことじゃねえか」
「違うよ。多分、波多野さんは犯人に気付いたんじゃないかな。驚くほど情報通だし。ひょっとして金の隠し場所にすら見当が付いているのかもしれない。それで警察に進言をしに――ってところだと思う。もしそうなら、犯人が捕まるのは時間の問題かもね」
「だから、そいつは誰なんだ。勿体ぶらずに言えよ」
「なら聞くけど、犯人は保管庫へ何をしに来た?」
「おさらいか。檻の鍵を取りに来たんだろ」
「じゃあ犯行後、犯人は何をしたことになる?」
「そりゃ、鍵を持ってどっかの檻へ隠した金を取りに……」
「どこの? 折原ならどの檻に隠す」
「ま、俺ならトラかな。普通は自分の担当の檻に隠すんじゃないか……ん?」言葉の途中で、折原が目を見開いた。「そうか。それじゃ、中丸が息を吹き返したときには、犯人の檻の鍵は、犯人自身が既に持ち去っていたってことになるんだ!」
 つまり、死に際の伝言として差し示そうとした犯人を表すべき鍵が、その場にはなかったという理屈になるのか。
「でも、実際には鍵は全部あったわけでしょ」
「もちろん、後で戻って来た犯人が戻しておいたんだろうね。さりげなく床に。ダイイング・メッセージには気付かなかったんだと思うよ。気付いていれば、隠蔽していただろうし」
「すると、中丸さんが握っていたあのゴリラは――」
「結局、守川くんの言っていたことが正鵠を射ていた、ってことかな」
「俺が――?」
「中丸さんは、咄嗟に犯人の名前を残したかった。でも、犯人を表す檻の鍵は視界にはなかった。だから、ゴリラの鍵を代用品にしたのさ」
 秀美は静かに嘆息する。あの夜は悪夢のようだった。いや、あれ以来悪夢はずっと続いている。
「付け加えると、例えメッセージを残すにしても、中丸さんはまだ新米だったし、誰がどの檻を担当しているか詳しく知らなかった可能性もある。でも、その名前、渾名だけは間違いなく知っていただろう」
 たったの五十万――サル山の穴にはそのぐらいしか隠せなかったのだ――のために、何故こんな理不尽な目に遭うのだろうか。ほんの出来心だったのに。
「歴史マニアだしね彼は。ゴリラなら、大雑把ながらその渾名を示唆できる。そう思って、彼はゴリラの鍵を握ったんだ。まさかそのあと犯人が鍵を戻しに来て、メッセージの意味が波多野さんに限定されてしまうことになるとは知らずね」
 そう。そもそも、こんな渾名さえなければ、動物園になど就職しなかったに違いないのだ。担当希望も別の動物にしただろう。渾名の不自然さを緩和させるためにそこまでするぐらい嫌いだったのだ。ずっとずっと昔から。
「物事は常に単純だよ。そう思わないかい、サルちゃん……坂崎秀美(ひでよし)くん」

01/10/21


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