エレベーター・アクション
エレベーターの扉が開いた瞬間、俺は中にいる菊谷の胸にナイフを突き刺した。
菊谷の目が驚いたように見開かれる。パートナーである俺に刺されるとは夢にも思っていなかったようだ。ぱくぱくと口を開け閉めするが、言葉が出ていない。 俺はゆっくりとくずおれた羽織袴姿の菊谷に顔を近づける。 「な……ぜ……」 やっとのことで菊谷はそう言った。 「お前は切れすぎるんだよ。俺に考えも付かないようなトリックばかり編み出しやがって。はっきり言うが邪魔だった。だがな、一番まずかったのは、俺の優子を横取りしたことだ」 「そ……ん……な」 「まあ、それでも最後に俺たち二人で作ったトリックに掛かって死ねるんだ。推理作家としては本望だろう?」 俺はそう吐き捨てると、白目を剥いた菊谷を俯せ加減にして、ゆっくりとナイフを抜く。溢れる血液は着物に染み込み、エレベーターの床に敷いておいたパネルカーペットには僅かに零れただけだった。血の付いたナイフを手に、俺はオフィスの入っている11階から26階までのボタンを全て押してから、その作業用エレベーターを出た。背後で閉まる扉。エレベーターの前に用意しておいた故障中の看板を置くと、業務用通路を通って、急いでロビーに出る。 さすがにメインの客用エレベーターの前には人影がある。それを横目に、ナイフを上着で隠しながら、エントランスからビルの外に出る。すっかり日の落ちたロータリーを見渡し、適当な植え込みの影にナイフを放り捨てると、エントランスに引き返す。 腕時計を見た。19時ちょうど。 俺は3機あるメインエレベーターまで来ると、辺りに目を向ける。まだ来ていない。 右端のエレベーターが1階に止まり、数人いたパーティの客たちが皆そこへ乗り込む。俺は彼らを見送り、扉が閉まってから、上行きのボタンを押した。 まもなく真ん中のエレベーターの扉が開くが、B1のボタンを押しただけで外に出た。エレベーターが下がっていくと、また上のボタンを押す。 今度は左のエレベーターが開いた。俺は中に入ると、開扉ボタンを押したまま待つ。 遅い。時間厳守と言ったのに。早くしないと全てはおじゃんだ。 イライラしながら待っていると、やがてエントランスに目当ての人間が現れた。 「和田さん、早く早く!」 俺は彼に向かって叫ぶ。彼はそれに気付き、巨体を揺すって駆け込んできた。 「セーフ!」 鼻息荒く、彼がガッツポーズを取る。俺は内心悪態を吐きつつ、閉扉ボタンを叩く。 「32階でしたっけ?」 言いながら32と書かれたボタンを押さえる。ぐん、と重圧が掛かり、鉄の箱は上昇を始める。 「あれ、30階ですよ」 和田は肩で息をしながら指摘した。無論、そんなことは知っている。 「え、本当?」 俺は驚いた振りをして30階を押し直した。 「やれやれ、ちょっと遅れましたな。パンクチュアル和田、一生の不覚」 「いや、私も今来たところです。ちょうどエレベーターが来ていたので、急がせてしまって申し訳なかった」 まあぎりぎりセーフだ。俺は胸をなで下ろす。 「それにしても、本日はおめでとうございます、先生。七代木賞をそのお歳でものにされるとは、いやあ、素晴らしい才覚ですな」 「まだ早いですよ。今日は只の前祝いじゃないですか。それに、私一人の力じゃ到底無理でしたよ。菊谷がいたからこそです」 「そういえば、パートナーさんの姿が見えませんね。どうかされましたか」 「ああ、あいつは先に来ていますよ。さっき、仕事場に寄るって言っていたな」 「そういえば、このビルにあるんでしたね。何階です?」 「26階ですよ。そうだな、ちょっと迎えに行ってくるか」 「そうですよ。やっぱり先生方は二人で一人。ご一緒に登場された方が皆さん喜びますって」 「いいんですか? 待ち合わせまでしておいて……」 「どうぞどうぞ。早く押さないと、通り過ぎちゃいますよ」 「じゃあ、お言葉に甘えて」 俺は内心ほくそ笑みながら、仕事場の階数のボタンを押す。やがてエレベーターは26階に到着した。 「じゃあ、菊谷を連れてすぐに向かいます」 「ええ」 俺は和田に頭を下げると、エレベーターを降りた。 彼のにこやかな顔が扉の向こうに消えると、俺は走り出す。人気のないオフィス階の通路を横切り、業務用エレベーターの前に滑り込む。 ぴったりのタイミングで扉が開いた。床に倒れている菊谷の死体。予想通り、誰にも見つからなかったようだ。休日の定時外オフィス階とはいえ、一階ごとに停止し、その都度死体が外気に晒されたというのに。俺は笑い出したくなった。 しかし、そんな時間的余裕はない。俺はエレベーターの開延長ボタンを押すと、前もって近くに立てかけておいた台車の持ち手を起こして、その上に菊谷の死体を乗せる。床に敷いてあるパネルカーペットもバラして台車に積むと、俺たちの仕事場である部屋へと押していった。 鍵を使ってドアを開け、台車ごと中に入る。本棚に囲まれた仕事場は、ひどく荒らされていた。まあ、荒らしたのは俺なのだからひどいもなにもないが。 部屋の中央の床は、一部分が剥がれたようになっている。俺はそこにパネルカーペットを填め込んでいく。無論、血痕の位置をずらさないように。これで犯行現場の出来上がりだ。 菊谷の死体をうまい具合にその場に転がすと、俺は部屋を出た。 あとは32階の倉庫にこの台車を返し、何食わぬ顔をして会場に出向くだけだ。32階からは、先ほど和田と乗った左の客用エレベーターを使って降りる。すぐエレベーターに乗れるよう、扉の前にモップを立てかけておいた。扉が開けばモップがエレベーター内に倒れ、閉まる扉に引っかかって、安全装置により扉が閉まらなくなる仕組みだ。 和田に会ったら、仕事場には鍵が掛かっていたと言えばいい。その後、菊谷は仕事場にいるところを強盗に襲われ、殺される。そして強盗はエレベーターを使って1階に下り、ロータリーの植え込みに凶器のナイフを捨てて逃げる。完璧だ。 俺はミスがなかったかを反芻しながら台車を押して作業用エレベーターに戻る。 開延長を解除し、32階を押したところで、足下に何かが落ちているのを見つけた。 ナイフだった。血にまみれている。 馬鹿な。凶器のナイフは確かにロータリーの植え込みに捨てたはずだ。俺は思わずそのナイフを拾い上げ、気付いた。 違う。これは凶器のナイフではない。菊谷愛用のペーパーナイフだ。 菊谷の野郎、悪あがきをしやがって。多分エレベーターの中で暫く息があったのだ。そして俺を嵌めようと、ペーパーナイフに自分の血を付け、転がした。さっきはエレベーターの外で作業をしていたから、この位置は死角になっていたのだ。 上昇を始めるエレベーターの中で、俺は舌打ちをする。 しかし、見つけることができて良かった。計画が狂うところだった。 幸いにも床の血痕は微々たるものだ。これぐらいは残っていても不自然ではない。俺はしかし用心深くエレベーター内を見回す。奴のことだ。まだ何か小細工をしている可能性がある。 と、30階のボタンの端が赤く汚れている。血痕だ。飛び散ったものではない。血の付いた指でこすったようになっていた。 まずいまずい。こんなところに血痕が残っていては不自然だ。犯人は1階の方に降りて行くはずなのだから。 俺はいちいち計画の邪魔をする菊谷を苦々しく思いながら、ハンカチで血痕を拭き取ろうとした。 くそ、なかなか落ちない。俺は少し力を入れる。 30階のランプが点灯した。 「あ」 力を入れすぎた。慌てて一階下の29階のボタンを押すが、タッチの差でエレベーターは素通りする。 嘘。嘘だ。 30階に到着するエレベーター。ポーンという間の抜けた音が響き、ドアが開く。 まさか、いないよな。作業用エレベーターだし。いくらパーティ会場だからって。こんなところに人は―― ――いた。 通路の向こうから並んでトイレ待ちをしていたらしき数人の客が、突然開いた、故障中と表示のあるエレベーターの中にいる俺を一斉に見る。 右手に血の付いたハンカチ、左手に血まみれのナイフを握ったままの…… だから、菊谷は嫌いなんだ。切れすぎるんだよあいつは。畜生。 00/11/3 |