ジェニーは殺して雪に埋めた。
案外手間の掛かる作業だったが、ひとりでなんとかやり遂げた。折り畳み式のスコップを持ってきたのが正解だった。降りしきる雪の威力は存外にも強く、掘り進む端からどんどん穴に雪が覆い被さってくるのだ。手で掘っていては、とてもじゃないが日が昇るまでに深く埋めることはできなかっただろう。いや、これほどの雪――この視界なら、作業が多少遅れたとしても誰かに気付かれることはなかったかも知れない。
とにかくこれで、彼女が発見されるのは春になってからだ。その頃には私が犯人である証拠はきれいさっぱりなくなっている筈だ。私はスコップをナプザックに仕舞いがてら、取り出した旅館のタオルで額の汗を拭う。
死装束となった白いウエア姿の彼女に雪を被せていくとき、私は彼女の思い出も一緒に穴に投じた。彼女の乱れた長い金髪に、懇願を呟いていた小さく薄い唇に、涙の伝う鼻梁に、サングラスの奥から不思議そうに見上げている瞳に、なにかを掴むように伸ばされた飾りのない細い指に――全てに私は、私の中の彼女の全てを幾重にも重ねて捨てた。
埋め戻した跡が真っ白な新雪に覆われ、やがて周囲と見分けが付かなくなると、彼女の世界はきれいさっぱり消え去った。もう、どこにもない。どこにもいない。私は満足した。
ゲレンデを背後に望む麓の宿へと辿り着いたときには、雪は随分勢いを弱め、空も薄く白み始めていた。日の出まではまだ30分程ある。
私は迷うことなく宿の裏手に回り込み、雪野原となった駐車場を抜け、一段高い丘の上の生け垣に囲まれた露天風呂へと近付く。こんもりと降り積もった新雪の丘をよじ登り、
四阿の屋根との隙間からそっと温泉の様子を窺う。温かな湯気でたちまちゴーグルが曇った。天然温泉を利用したこの露天風呂は、24時間開いている。私は下調べの万全さを確認すると、ロッククライミングのように全身を使って雪に覆われた生け垣の斜面を回り込んだ。
本館と離れの露天風呂を繋ぐ屋根と高い柵付きの外通路の途中に、温泉管理者用の通用口が付いている。その簡易扉に鍵が掛けられていないのももちろん調査済みだ。宿の敷地内ではあるものの通路自体が外というイメージのためか、わざわざそこから侵入する人間などいないだろうと踏んでの措置だろうが、なんとも防犯対策の甘いことだ。
首尾良く外通路に侵入できた私は、そこでウエアーを脱ぎ、浴衣とサンダルに着替えた。タオル類を持ち、その他の荷物は纏めて扉の外に隠す。
温泉に向かおうとして、彼女の部屋の鍵を持ってくるのを忘れていたことに気付き、ナプザックまで取りに戻った。男性用の脱衣所に入ると、凍える身体を制して室内を念入りに確認する。計画上、宿泊客の誰かと遭遇しても特に問題はないが、目撃者はいないに越したことはない。まあこんな早朝だ。予想通り脱衣籠はどれも空っぽだった。
ふと、棚の上の花瓶に生けられた花が目に留まる。白に紫色の斑点が散った美しい花。百合の一種だろうか。季節外れだから造花かも知れない。そういえばこの民宿の名前は山百合荘だったな。そんなことを思いながら、露天に繋がる引き戸を開ける。
湯気の向こうに、女がいた。
露天風呂に身を沈めたまま、こちらを振り向く。金髪だ。
立ち上る湯煙にたゆたう風花が、まるで映画のスローモーション演出のような情景を醸し出している。
私は立ち尽くした。
あれは。彼女は、まさか――
「ジェニー」
我知らず口の中でその名を呟く。
馬鹿な。有り得ない。
彼女はつい先程、この世界から完全に姿を消した。今や、私の心の中からも消失しかけているというのに。
「――お早うございます」
ジェニーの唇が動き、私に向けて言葉が紡ぎ出される。私には……いや、彼女には私が見えている。
これは――夢だ。決まっている。
目を固く閉じ、頭を振る。
ジェニーではない。私はそう心に強く念じ、ゆっくりと目を開く。
「どうされたんですか?」
女は怪訝そうな顔をしている。
よく観察する。――明らかに別人だ。
ジェニーはハーフだけあって、バタ臭く彫りの深い顔立ちだった。それに対して目の前の女性は、和風美人ともいうべき繊細な面差しがある。年の頃は二十歳前後だろうか。金髪は――そう見えたのは、頭に巻かれた黄色いタオルの色だ。よく見ると山百合荘の銘が入っているし、タオルの端から白いうなじに覗く後れ毛ははっきりと黒い。
やはり勘違いだ。そう安心したのも束の間、私はもっと大きなミスに気付く。
何故女がここにいる? さっと血の気が引く。
決まっている。男湯と女湯を間違えたのだ。
慌てて身を翻す。口を開くが、凍えて呂律が上手く回らない。
「す、すいません。間違えてしまって。け、決して、その、覗くつもりでは、その」
なんということだろう。いっそこのまま逃げ出したかったが、誤解を解いておかなければ変質者と疑われ騒ぎ出されてしまうかもしれない。焦燥感だけが募る。
しかし――ややあって、あはは、と女の笑い声がした。
「なにを仰ってるんですか、ここは混浴ですよ」
「え?」
混浴――だと。そう言ったのか。
呆気に取られる私の背後を、女は右手ですっと指さす。示されるままに振り向くと、つい先程出てきた脱衣所へ続く扉の横にもうひとつの扉があり、磨りガラスにはそれぞれ『男性用』『女性用』と記されていた。間違いないようだ。
考えてみれば、確かにジェニーがそんな話をしていた記憶がある。苦労して見付けたあなた好みの宿よ、と屈託なく笑う彼女の姿。そして、暗闇に踊る金色の髪――怯えたような――
早く忘れるのだ――自分の声がその記憶を掻き消す。
彼女はいない。どこにも。そうだ。もう顔も思い出せなくなってきた。
私は平常心を取り戻す。混浴――論理的に考えてそれしか答えはなかったのだ。脱衣所は空だった。露天風呂自体は共通でも脱衣所が別だったために、脱がれた彼女の衣服に気付けなかったのだ。
さて、しかしどうしたものか……こういう場は初めてだ。一旦躊躇してしまうと、なんだか動くに動けなくなってしまう。
私がまごついていると、女は恥ずかしそうに目を伏せて背中を向け、すうっと湯船の奥へ移動した。湯の表面が乱れ、揺らめいて見えていた彼女の肌色を散らす。
「どうぞ。そのままだと凍えてしまいますよ」
確かに私の身体は冷え切っていた。回れ右をして旅館の部屋風呂に移動するだけの体力的な余裕はない。加えてここが混浴なら、なにも後ろ暗いところはないのだ。
私は寛大な彼女の助言に感謝して、風呂に浸かることにした。取っ手が付いた木製の古風な湯桶に湯船の湯を汲み、肩から掛ける。温度計に記された湯温は低めだったが、それでも今の私にとっては煮え湯のように熱い。特にかじかんだ手足の指は火傷しそうな程だ。しかし、身体を襲う寒気にはもう我慢がならない。彼女の方まで飛沫が行かないようにだけ気を使い、私は生理的欲求の赴くまま一気に檜の浴槽に身を沈めた。
生き返ったような気分というのは正にこのことを言うのだろう。温熱と薬効が瞬く間に体中へ染み通っていく。そのあまりの心地よさに、私は外聞も憚らず溜め息を漏らした。
凍りついて麻痺していた五感の全てが働きを取り戻し、さらに研ぎ澄まされる。
年代物の檜は肌触りが良く、香りこそ少ないものの、単純温泉の柔らかな臭気と相まって鼻に適度な刺激を与えてくれる。首から上は相変わらず真冬の外気に晒されているというのに、じわじわと身体の内から温めたれているお陰で、頬に受ける雪の冷たさすらも快く感じる。
周りは静寂そのものだった。湯出し口は浴槽すれすれの高さに設置されていて、無粋な水音が殆どしない。波紋が浴槽の縁に当たる微かな音でさえ大きく響いた。
生け垣と四阿の屋根に切り取られた空はさっきに比べて白んでいるとはいえ、露天の隅に設置された
篝火(型の照明に比べればまだ暗い。そこから次々と舞い込んでくる綿雪が照明を受けて輝き、また湯気に影を落とす。
この幻想的な世界を占めているのは、私ともうひとりの女だけだ。ほんの数百センチの隔たりの向こうで肌を晒す他人同士。
初めは彼女の方を見ないようにしていたつもりだったが、そちらから水音が聞こえるたびについ目を遣っているうちに、いつの間にかつぶさに観察していた。
女は私に背を向けている。目線が水面に近いせいか、湯に包まれた彼女の姿態は判別できない。篝火は湯の中まで届かず、垣根に積もった雪明かりはその表面だけを薄く照らす。女の白い肩から上だけがぼうっと浮かんでいる。それはこの美しい世界にとても相応しい存在に思えた。
頭のタオルだけが邪魔だな……と思っていたら、まるでそれが聞こえていたかのように彼女がタオルを解きだした。艶の良い黒髪がするりと伸びる。彼女は髪を湯に付けないように滑らかな手付きで支え、ちらりとこちらを見る。慌てて視線を逸らす私に構わず、髪を持ったまま泳ぐように近付いてくると、檜の浴槽の端に置いてあった洗面器――自前だろうか――から髪留めを取り出し、髪を器用に後頭部で折り畳んで夜会巻きのように留めた。
「随分――お早いんですね」
どうやら会話を始めるための準備だったらしい。彼女はすすっと絶妙な位置まで戻り、そう口を開いた。
私はこれ以上自分の存在を印象付けさせたくはなかったのだが、どうせ彼女が発見される来年には今朝の邂逅など忘れ去られているだろう。無視を決め込むと返って不自然な印象を与えるので、温まってようやく思い通りに回り始めた口を動かすことにする。
「ええ……この時間なら誰もいないと思いまして」
「あたしもです」
「お邪魔してしまって申し訳ない」
「いいえ。あたしこそ驚かせてしまったみたい」くすくすと、彼女は私の先程の慌てぶりを思い出したように笑う。
「どのくらいの間ここに?」
「まだ真っ暗な時分からです。もうかれこれ30〜40分になりますね」
当然だが、さっき生け垣から覗いたとき中に彼女はいたのだ。もしや見られていたのでは、とも思ったが、彼女の様子から察するにセーフだったらしい。
「静寂が好きなんです。今朝は雪のわりには風が殆どないからとても静かで、気分が良くなってしまって、つい長湯を。ここはある程度国道から離れてはいますけれど、車の音なんかもぜんぜん聞こえなかったですね」
「ああ。雪ってのは音を吸収するクッションのような性質があるそうですからね」
私の犯した些細な犯罪の物音も、あの雪が覆い隠してくれたに違いない。
「それにしても、今夜はすごい雪でした。この宿、ゲレンデ沿いに立っているから、晴れていればナイターの様子はもちろん、ゲレンデ中腹のロッジの明かりとか、その近くにある旅館のイルミネーションなんかが見えるんですけれど、今夜はもう白一色で」
「ああ。あのイルミネーションは壮観ですね」
今シーズンにオープンしたばかりの翠風館という旅館だ。ティーンエイジャー向けに用意されたと思しきイルミネーションは可動式のレーザーライトを使った派手な演出で、ロマンチックではあるのだろうが私にはくどくて鬱陶しいものに感じられる。風情の欠片もあったものじゃない。
きっとジェニーなら、手放しで喜んでいただろう。その顔が目に浮かぶようだ。この宿を選んだ理由のひとつに、そういったロケーションがあったかも知れない。
――待て。今更どうして彼女のことなんかを思い出しているのだ。
忘れよう。今は全てを消し去ることが私の最大の課題だ。
消し去る――といえば、彼女がこの宿にいた痕跡を自然な形で消し去るための工作を忘れないようにしなければ。まだ十分な時間はあるが、身体も温まったし、例のアレの件もある。早めの行動を心掛けるに越したことはない。
しかし、いま上がるのはいくらなんでも不自然だ。この女がさっさと出て行ってくれればいいのだが。
そんな私の心中を知ってか知らずか、彼女は気持ちよさそうに伸びをした。脇の下や豊かに張り出した胸の陰影が湯に見え隠れする。無防備な姿で見知らぬ男と顔を突き合わせているというのに、大胆な女だ。警戒心を抱いたりしないのだろうか。
私が気を回しすぎなだけかもしれないが、さりげなくそのことを尋ねてみた。すると、彼女は無言で私が左手で弄んでいる緑色のタオルを指さす。
「これが、なにか?」
「タオルじゃなくて、その指」
成る程――私は自分の手を見てようやく彼女の言わんとしていることに気が付いた。薬指に填った結婚指輪。流石女性というべきか――いや、結構目聡い女なのかも知れない。
「ご夫婦でお泊まりですか?」私の納得げな顔を見て、彼女はそう問い掛けてくる。
「いえ。仕事でね。あなたこそ、恋人か誰かといらっしゃっているんじゃ。こんなところを見られたら、大変ですよ」
「残念ながら違います。友達の女の子たちと……まあ、卒業旅行みたいなものです」
ということは、学生――見た目からして、大学生か。温泉ギャル――などという言い方は最近はしないのだろうが、この宿を選んだのはなかなか目の付け所が良いな、と思った。
旅先で若い女性と触れ合っていることに、なんとなくうきうきしている自分に気付く。ジェニーの束縛から解き放たれたいま、私は自由の身なのだ。
「お部屋はどちらに? 山側なんですよね」つい口が滑って余計なことを聞いてしまう。まあいい。こんな状況で彼女に興味を示さない方が失礼だ。
「ええ。ホトトギスの間です」
「へえ……私は鈴蘭の間です。なんだか統一感がないですね。やっぱり部屋には写真のパネルが?」
「……ええ」
「あれ、なかなか良く撮れていますよね」
彼女は顔を押さえて、急に黙り込んだ。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……ちょっと長く浸かりすぎたかもしれません。湯当たりをしてしまったみたい」
「それはいけませんね。お引き留めするつもりもありませんので、どうぞお上がりになって下さい」
私としても、そろそろ行動を開始したい。
「ありがとうございます。でも、もう少し居させて戴いても構いませんか」
「ええ。私は別に……」
やれやれ、しつこい女だ。しかし、やはり心なしか先程までの元気がなくなったように思う。頭痛でもするのか、目を細めて顔に手を当てたまま黙っている。
私は少し薄気味が悪くなってきた。別に幽霊だの座敷童だのを信じているわけではないが、こんな人気のない温泉の隅っこにずっと居座っているというのは少しおかしな話だ。
まあ、人のことは言えないか。世間一般からすれば、私の行動こそまったくもって異常だろう。人を殺めて一刻も早くこの地を離れなければならないのに、こうやって呑気に混浴の温泉になど浸かっている。仮に雪女が現れても、私を見て裸足で逃げ出すかも知れない。
暫く静寂があった。
ふと空を見ると、山の切れ目から光線が差し込んできていた。夜明けだ。
篝火が急に火力を弱めたように感じられる。水面は日の照り返しできらきらと輝き、清爽な朝の空気が露天を包み込む。
女の姿は逆光に紛れ、夜の残滓を纏うように暗く沈んだ。もうその表情は窺えない。
タイムリミットが迫っている。そろそろ行動を開始しなければ。
私は、お先に失礼します、と黒い影に軽く頭を下げてから、立ち上がる。
湯船から上がり、タオルで軽く身体を拭いて、脱衣所へ向かおうとした。
そのとき。
「――もう、行くの?」
背後で女の声がした。なんだ……なにか口調が変だ。
時間がない。私が聞こえない振りをしてそのまま歩き出すと、再び彼女の声が鋭く耳を貫く。
「――
友紀人(」
え?
今……なんと。
「どうしたの、友紀人」
馬鹿な。何故……私の……名前を。
さぱぁ、と湯が動く音。女が立ち上がったのだ。
ジェ……ニー。そんな、筈は。
「友紀人」
私は恐る恐る振り返る。
そこに、逆光を浴びた女の裸身があった。顔は見えない。巻かれていた髪がするりとほどけ、雪交じりの風を孕んで広がる。黒かった筈のそれは――みるみるうちに金色に変わった。
私はなにか声を上げたかも知れない。しかし、そんなことを気にしている余裕はまったくなかった。
「どうして――あなたは、どうして私をひとりにしていくの?」
彼女が左手を伸ばしてくる。その細い薬指には――指輪が光っていた。彼女の――ジェニーの指輪。私のものと揃いの――結婚指輪。
「ジェニー……なのか」
違う。彼女は填めていなかった。確かに確認したのだ。雪穴の上からあの白い指を。
だから部屋に忘れてきたのかと思って――流石にそれを置いて宿から姿を消すのは怪しまれる――探そうとしていたのに。
何故だ。信じられない。彼女は、雪に。
「寒いの。ここは、とっても。早く私のところへ――迎えに来て」
ぬるりと足が滑り、私は尻餅を突く。剥き出しの臀部に激痛が走るが、私は彼女から目を離せなかった。
彼女は……ジェニーは、悲しそうな瞳で、私を見据える。その両目から、涙が零れた。
「お願い。動けないから。早く、早く助けに来てよ、友紀人……」
もう限界だった。私は奇声を上げながら、這いずるように脱衣所へ逃げ込んだ。濡れたままの身体に浴衣を巻き付け、外通路の通用門から雪の中へ飛び出す。
空は晴れ渡っている。私は雪を掻き分けるようにして、ゲレンデを目指す。ジェニーは。ジェニーは生きているのか!
あれはなんだったんだ。わからない。でも、彼女はまだいる。
彼女の世界はまだこちら側と繋がっているのだ。
行かなくては! 行って止めを刺さなければ!
急激に身体が冷える。手足がかじかんで上手く動かない。湿った浴衣に雪が張り付いて、冷たい。冷たい。
寒い。眩暈がする。
私はゲレンデの袂に倒れ伏した。
持っていたタオルが雪の上でたなびく。
遠くで人の叫び声。足音。
けれど、段々なにも聞こえなくなっていく。
どうして? 私は上手くやった筈だ。
こんなことで。こんなところで終わってたまるものか。
彼女を消し去って。この世界から完全に抹消しなくては。
一刻も早く――
風に、金色に輝く髪が一本、流されていく。
ジェ……ニー……
私の世界は、そこで暗転した。
あたしは温泉から上がると、火照った身体を拭き、脱衣所で浴衣を羽織る。随分と長湯してしまった。少し上せ気味かもしれない。
それにしても――奇妙な偶然もあったものだ。
脱衣籠の入った棚の上にある花瓶に目を遣る。そこに飾られた紫斑の白い花――遅咲きの
杜鵑草(。
この露天風呂が混浴ということを知らぬまま入ってきた時点で怪しんではいたのだが、あたしたちが泊まっている部屋の名でもあるこのホトトギスを鳥の名前と勘違いしているのに気付いて確信を強めた。彼が殺人犯か、それに準ずる者であること。
この民宿、山百合荘には、オーナーの趣味によって至る所に百合が飾られている。そして、部屋の名前も全てユリ科の植物で統一されていた。
杜鵑草(、鈴蘭、
蘆會(、
風信子(――皆ユリ科だ。
それは部屋に飾られた造花や額入りのパネル写真を見ても一目瞭然だった。案内の際に従業員がわざわざ由来を説明してくれるので、宿に泊まっている者ならその事実を知らない筈がない。即ち、あの男は宿泊客ではないということになる。
問題は、ただの侵入者なら、部屋の名前として咄嗟に鈴蘭という言葉を出すことすらできないだろう、ということだ。まして、ホトトギスを鳥と思い込んでいるなら尚更である。
つまりあの男は、この宿に泊まったことがないにも関わらず、内部のごくごく限定的な情報――ある部屋の名前や内装――だけを知っていることになる。この状況で真っ先に考えられるのは、宿に泊まった誰かから聞いていた、というものだろう。では、いったい誰に聞いたのか。
髪を良く拭いてタオルを巻き、帯を締めて外通路に出る。途中にある通用口の扉が開け放たれていた。外を覗くと積もった雪が不自然に乱れている。きっと男はここから出入りしたのだろう。
彼がこんな早朝に、いったいどこからやって来たのかも謎だった。なにせ、彼が現れるまで外は静寂に満ちており、車の音などまったく聞こえなかったのだ。裏の駐車場なら、たとえ原付のエンジン音でも聞こえただろう。あの大雪の中で徒歩なんて考えられない。となると――
露天に入って来た男の顔には、はっきりとゴーグルの跡が残っていた。しかも、目の回り以外の皮膚はずっと雪礫に晒されていたように赤く腫れぼったかった。きっと、スキーかスノーボードを使ってここまで滑ってきたのだ。
どこから? ――山の上から。
通路からゲレンデの中腹を見遣る。雪が止んだお陰で視界は良好だった。今シーズンオープンしたばかりの旅館――翠風館と言ったっけ、あのイルミネーションのきれいな――がよく見える。
彼はおそらくあそこに泊まっていたのだろう。そちらにはきっと連れ――仕事で来たというのが真実なら、同僚あたりか――がいて、彼のアリバイ証人に利用されているのかもしれない。
確たる証拠はない。が、彼の持っていた緑色のタオル……あれは山百合館のものではなかった。色が違う。印刷された文字もちらりと見えたが、あれは『翠』という字だったように思う。
それに、間近では確認しなかったが、あのタオルには長い金色の毛髪のようなものが付着していた。もしあたしの予想が正しければ、それは男とその毛髪の持ち主が揉み合った際にタオルに触れたか、或いはそのとき彼の身体に付いた毛髪が、汗を拭うなどした際に間接的に――
つまり、男はまず翠風館に宿泊する自分の予定に合わせて、誰かをこの山百合荘に泊まらせた。これは逆の可能性もあるだろう。相手に会わせて良い位置に宿を取ったかもしれない。
そうして男はその人物を深夜に麓のどこかへ呼び出し、会った。ナイターで待ち合わせたとも考えられるが、男の動きを逆算するに、もっと後のことだろう。多分その際に鈴蘭の間の情報を男はその人物から得た。そして……どうなったかは想像するしかないが、幾つかの傍証と男のあの様子から察するに、その人物――彼女はおそらく――
あたしが犯人なら、きっとゲレンデのコース外、雪の中深くへ埋めてしまうだろう。滑走中の事故に見せ掛けるかも知れない。ここは雪深い。被害者が嵩張るスキーやスノーボードではなく、ショートスキーなどを履いていれば、埋まったまま暫くは発見されないだろう。運が良ければ、雪解けが来るまで見付けられることはないかも知れない。
今夜の大雪では、穴を掘るのに時間が掛かったことだろう。深夜に行動を開始したとしても、遺体を運んで埋め終えるのは明け方近くになる。
犯行を終えた男がこの宿に現れたのは、彼女が宿泊中であるという痕跡を抹消するためだ。失踪を演出するつもりだったのか、宿泊代を置いて荷物を持ち去り、急用で早くに起ったことにしようとしていたのかはわからない。案外、自分に繋がる証拠品を探しに来ただけなのかも知れない。
ただ、その隠蔽工作を行う前に――宿の中を一度でも歩いてみれば、ここの趣向などすぐに気付く筈だ――露天風呂に入りに来たのは実に大胆だった。夜明けを待つ間の暖をあそこで取ろうとしていたのだろう。どっちみち、日が昇り、リフトが動く時間にならないと、彼はゲレンデの中腹にある自分の旅館まで戻ることができなかったのだから。
「あ! 姉御いたっ!」
母屋に戻ると、ロビー近くで大声がした。そちらを向くと、とたとた走り寄ってくるツインテールの小柄な女性の姿があった。遅れて、ボーイッシュな雰囲気のショートカットの女性も近付いてくる。2人とも洋服姿だった。
「おはよ。早起きだね、君たち」
そう声を掛けると、案の定、目を丸くする2人。
「それはこっちの台詞ですよ。起きたらいないんですもの」
「うわあ、姉御お肌すべすべだよ! お風呂はいってたの?」
「うん。ちょっと離れの露天にね」
姉御――あたしは大学でそう呼び慣らされている。人の悩みを聞いたり、なにかと世話を焼いたりする性分に由来しているのだろうけれど、自分としては少し恥ずかしい渾名だ。
「なかなかいいお湯だったよ」
「ずるいよぉひとりでさっ! 起こしてくれれば良かったのに」
「2人とも気持ちよさそうに寝てたからさ。起こしちゃ悪いと思って」
本当はひとりが好きなだけだったのだが、当人たちの目の前では言い出し難い。
「むぅー。色っぽいから許すけど」
「でも、離れって……あそこ、混浴じゃなかったですか。案内板に大きく書いてありましたよ」
「うわぁ、度胸あるよ。度胸星だよ」
口々に騒ぎ立てる2人を手で制し、あたしは部屋のある階段の方へと歩き出す。
「まあ、早朝だったし。中は誰もいなかったよ」
「あ、姉御なにこれ。指輪?」
「それ……結婚指輪じゃないですか。どうして姉御が?」
「ああ」忘れていた。あたしは薬指の指輪を外し、2人に見せる。「これ、露天の湯船の底で拾ったんだ。なんとなく填めてみたら経がぴったりだった」
「落とし物ですか。内側に名前が彫ってありますね。YUKITO & JENNY ……ユキト&ジェニーって」
「うん。指輪にね、こう――長い金髪が絡まってたんだ。それで、同じ並びの部屋に泊まってる彼女のものじゃないかと思って」
「ああ、昨日見た。鈴蘭の間でしたっけ。彼女、金髪でしたね。顔付きはちょっと日本人ぽかったですけれど」
「ハーフかな。名前も愛称の可能性があるしね。指輪に刻むかどうかはともかく――まあ、これは宿の人に預けておこう」
道理としては、この指輪を持って直接彼女の部屋を訪ねてみるべきなのだろう。自分のたわい無い妄想が外れているなら、あの流れるような金髪の女性に会える筈だし、もし最悪の事態が確認されれば尚更、詳しいことを警察に伝えなければならなくなる。
けれど、そうする気にはなれなかった。これ以上は、あたしの領分ではない。
「あ、姉御」
「ん?」
「今、姉御の髪の毛も金色に見えた」
「……あたしの髪、細いから。逆光が当たると、金髪っぽく見えるときもあるよ」あたしはタオルを解き、微笑む。
「くぅーなんか色っぺーよぅ! 私も混浴チャレンジするべきかっ」
なにか
滾(っている様子のツインテールの娘を無視してカウンターに向かう。そこはいつになく慌ただしくて、数人の人だかりができていた。
「姉御に会うちょっと前から、どうも外が騒がしいんですよ。変質者が現れたとか。全身ずぶ濡れの半裸状態で雪の中に倒れていて、救急車を呼んでいるらしいんですけど」
「『
止(め』がどうとか、『あいつの世界が』とか意味不明なことを口走ってたって。覗き魔じゃないかな」
「物騒ですよね、こんなところで。姉御も気を付けてください」
2人を適当にあしらいつつ、あたしは窓越しに雪山を見た。ジェニーはきっともう暫く、あの白い世界のどこかに封印されたままでいるのだろう。
春が訪れるか――再び彼が迎えに現れるまで。
そうして始まった旅行二日目の夜、この山百合荘で血も凍るような新たな事件に巻き込まれようとは、あたしたちは夢にも思っていなかった。
このときは、まだ。
06/01/16