LAGRANGE POINT


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ラグランジュ・ポイント


 硝子戸を開けて店内に入ると、そこに満たされた冷気が獰猛なまでに襲いかかり、汗と共に体に纏わりついていた熱の層をあっという間に奪い去っていった。松本(たもつ)は、奥から現れた店員に遅れて来る連れの存在を告知し、窓際の席に座る。
 窓の外は、夕暮というには明る過ぎた。だが、店内の時計は既に19時を指し示している。
 店員が水とおしぼりを持って訪れた。注文は後にしてもらい、さっさと追い払う。額にしつこく残る粘ついた汗をおしぼりで拭き取り、保は鞄から煙草を1本出して燐寸(マッチ)で火を点けた。
 保は人前では滅多に喫煙をしない主義だった。同僚の多くにも、煙草を吸わない人間だと思われているだろう。実際、愛煙家というわけではない。常にやめたいと考えてはいるが、ニコチンの魅力には抗いきれないと判断している。今日のような暑い日は特にそうだ。
 暫く何も考えずに煙を(くゆ)らせる。19時半を過ぎた頃、窓の外の通りを見覚えのある車が横切ったので、灰皿の底で煙草を揉み消した。
「悪い悪い、待ったか?」
 数分して店内に現れた知人は、保の側に来ると、そう第一声を発する。保は首を振った。
「いや」
「暫くぶりだな」彼は保の正面に腰を下ろす。「元気にしてるか」
「いつも通り」
「次郎と美奈は?」
「いつも通り」
「ジャッキーは飯食ってるか?」
「君が辞めてからちょっと元気ないみたいだな」店員がもう一組の水とおしぼりを運んでくる。「飯は食ってる」
「ならいいさ。安心だ。あっと、珈琲」途中から店員に向けて言い、保を見る。「悪いが少し腹に入れてきたんでな。お前、注文は?」
「僕も珈琲でいい」保は彼と店員の間を向いて答えた。「夏ばてかな、最近どうも食欲がなくて」
「なんだよ、お前の方が食ってないのか」
 店員が去ると、彼は即座に煙草を咥えた。
「もっと周りの動物たちを見習いな。弱肉強食の世界じゃ、食わなきゃ生き残れないんだぜ」
「動物園に生存競争はないよ」
「そりゃそうだが。しかし懐かしいな。そのうち休みでも取って西野に遊びに行くか」
 煙を吐き出しながら呟く彼――折原幸夫と保は、数ヶ月前まで同僚同士だった。職場は都内にある、西野動物園。折原はアムールトラの飼育員だった。そのうちの1頭の名前がジャッキーである。次郎と美奈は、保が担当しているアミメキリンのつがいの名前だ。
 働き盛りの折原が突然辞表を出した理由を、保ははっきりと聞いてはいない。ただ、きっかけについては概ね想像がついていたので、強く引き留めはしなかった。園長も同じような判断をしたのか、人手不足の折にも関わらず、すんなりと辞表は通り、彼は後腐れなく動物園を去っていった。
 そのとき以来、直に会って話をするのは今日が初めてである。
「そういえば昨日、久々に秀美の奴に会ってきた」灰皿を寄せ、煙草を挟んだ手をその上に乗せて折原が言う。
「そう」保は灰皿から折原の顔に視線を移す。
「思ったより、元気そうだった。お前にも宜しくってな」
 保は頷く。坂崎秀美も折原と同じく、同僚だった。そして同時期に飼育員を退職している。
 折原は特にそれ以上言うことはないらしく、煙草の先を赤く光らせる。保も自分から訊ねることはなかったので、窓に視線を遣った。帰宅ラッシュがピークを迎えているようで、通りには長い車の列ができていた。
 声がして振り向く。店員が盆に珈琲のカップを目一杯乗せてきた。彼女はそつのない動作でその中から二人分を保たちの前に並べ、一礼して隣の席へ移る。
 珈琲を一口啜り、保は折原を見た。「そろそろ本題に入らないか」
「そうだな」彼は煙草を消した。「呼び出したのは、他でもない。松本、お前に意見を聞きたかったからだ」
「うん」確かに、そういう連絡を受けていた。困っているから、相談に乗って欲しいと。
「少し長い話になるぞ」折原は珈琲に砂糖を1杯入れ、掻き混ぜる。「事の起こりは、10日ほど前だ。その日は、夜に河川敷で花火大会があった」
「都内の?」
「ああ。その花火大会の最中に、人が殺された。新聞にも載ったんだが、知ってるか?」
「いや」
「死んだのは梶山ゆかりって女でな。俺の高校時代からの友人だ。発見したのは都の清掃員。翌朝、花火会場の清掃中に、河川敷にある資材置場の木材に被せられたビニルシートが不自然に盛り上がってるのを見つけたそいつがシートを巻くってみると、死体があったってわけだ。警察の調べによると、死んだ時間は前日の夜から翌日の未明にかけて。直接の死因は、鈍器で殴られたことよる頭蓋骨骨折だが、首を絞められた痕もあったそうだ。凶器や紐は犯人が持ち去ったのか、発見されていない。そのことと、遺体に動かされた形跡があったことから、警察は殺人事件と断定して――ん、どうした?」
 保が眉をひそめたのに過敏に反応し、折原は話を中断する。仕方なく保は疑問を口にした。
「……死亡推定時刻が夜から未明? 具体的には何時なんだ」
「ん。まあ、今ぐらいの時間……もっと前か。午後7時頃から、朝の3時までだったかな」
 折原は店の時計を見て答える。
「8時間か。おかしくないか。死後一晩経っただけで、そんなに時間の開きが出るものかな」
「ああ。確か、資材置場が川縁に寄っていて、死体の上半身が川の水に浸かっていたせいで、はっきりしないんだそうだ。死後の体温がどうとか言っていたな」
「もうひとつ。花火大会が開かれていた時間は?」
「ん。ええと、待てよ」折原はワイシャツの胸ポケットから手帳を取り出し、それを見て答える。「8時から12時過ぎまでだな」
「じゃあ、花火大会の前や、終わった後に殺された可能性もある。なのにさっき君は、花火大会の最中に殺されたって言ったろ。どうして断定できる?」
「何だ、そんなことか。順番に話してるんだから、大人しく聞いてろよ」
 折原は不機嫌そうな顔で2本目の煙草に火を着けた。
「梶山は、花火大会の会場から家族に電話を掛けているんだ。9時10分頃にな。その電話の中で、彼女は自分が会場にいることをはっきり告げたうえで、花火についての感想を伝えている。第一、花火会場の特設駐車場に、彼女の車がちゃんと置かれていたしな。だから、花火大会の前に彼女が殺された筈はない」
「ふうん」
「釈然としないって顔だな」
「……いや、そんなことはない。花火大会の後に殺された可能性がない理由は?」
「そいつが重要だ。実は彼女が花火が打ち上げられている間に殺されたっていう、確固とした証拠があるんだ」
 苦虫を噛み潰したような表情のまま珈琲を一口啜り、折原は続ける。
「警察は梶山を解剖して、胃袋の中身を調べた。そこから睡眠薬と一緒に、茶の成分が検出されたんだ。しかも、最高級の玉露だ。この意味が分かるか」
「君の家で出したのか?」
 保が自分の考えを口にすると、折原は目を見開いた。咥えていた煙草を落としかけ、慌てて手で押さえる。
「お、おい。待て。何で分かったんだ」
 安っぽいドラマのようなリアクションをする男だ。よっぽど、顔を見ればわかるとドラマ風に言い返してやりたかったが、保は堪える。
「君がその事件についてあまりにも詳し過ぎるからさ。警察(づて)で情報を得たんだろうが、被害者の知り合いってだけの関係じゃ、そこまで突っ込んだ話は聞けないだろう。警察は情報を攻撃手段として使うからね。容疑者とまではいかなくとも、重要参考人程度の扱いは受けているんじゃないかと思って、かまを掛けてみたんだ」
「そうか……さすがに鋭いな。お前の言う通り、梶山は花火会場に行く直前まで、俺のマンションの部屋にいた。そこで俺が出した茶を彼女は飲んだんだ。生前の彼女が最後に会った人間が――犯人以外で、だが――俺ってわけだ。ここまでわかってりゃ、俺と彼女の関係についても、察しがついているんだろ」
「まあ、一般的な想像はできるね」
「安心しな、正解だ。俺とあいつは、付き合っていた。もう1年になっていたか。俺にしては結構長く続いていたんだがな……」
 折原は煙混じりの溜め息を吐き、視線を徐々に明度を落とす窓に向ける。保は黙って彼が口を開くのを待つ。相談事の核心はこれから話すことにある筈なので、慰めの言葉をかけるのも躊躇われたのだ。
 やがて、折原は視線を戻した。
「あの花火大会の夜にな、あいつは突然俺の家に押し掛けてきたんだ。とりあえず部屋に上げると、別れ話を切り出された。はっきりと理由は言わなかったが、どうやら別に好きな男ができたらしい。元より気まぐれな女だってことはわかっていたんだが、さすがにそのときは口論になってな、挙げ句、あいつは怒って家を飛び出していった。それが、大体8時頃だ。彼女が訪ねてきたのが7時だから、1時間ほどしかうちにはいなかったことになるな。俺が出した茶を彼女が口にしたのはその時間帯だ。そして、どうやらそれが、死んだあいつの胃の中から発見されたものらしいんだ」
「すると、そのあと彼女は花火会場へ出向き、何者かに殺害されたわけだ。ちなみに彼女は、君と別れた後の予定について何か言い残していたのかい」
「そんなわけないだろう。喧嘩してたんだ。まあ、花火大会の話自体は前々からしていたがな。俺の家から会場までは結構近くて、車で30分程なんだ。夜ならもっと早い筈だ。あいつが8時過ぎに俺の家を出て直接向かったとして、まあ8時半には着いていたと思う」
「少なくとも、花火大会が開始されるまでの生存は確認されたと」
「家族への電話の件を忘れるなよ。9時10分までは確実に生きていた筈だ。そして花火の終了する12時ともなれば、胃の中の玉露は完全に消化されちまってただろうから、それまで生きていたってこともまた、あり得ないってわけだ」
「一般的に、人間は食後2時間から5時間ぐらいで消化活動を行う。水分なんかは吸収されやすいから、9時10分の時点で胃の中にあったことすら珍しいと思うけどね」
「ああ。警察も同じようなことを言っていたな」
 折原の一言に、保は思わず身を乗り出した。
「ちょっと待ってくれ。まさか君が疑われているのか」
 彼は頷く。「弱っちまってな。相談に乗って欲しいのはそこなんだ」

  
 折原の元に刑事が訪ねてきたのは、遺体発見日の翌日、即ち花火大会の2日後だった。彼女の友人関係を伝って、折原の存在に辿り着いたらしい。友人伝いで既に訃報を受け、警察が介入して葬儀が遅れていることを聞き知っていた折原は、彼らの訪問を受けても、ある程度落ち着いていられた。その様子を見て折原が怪しいと早合点した刑事たちは、2度目の訪問時に、どこから聞き出したのか、折原と彼女の近況をまくし立て、巧みにかまを掛けてきたのだという。
「それでつい、当日会ったときに喧嘩別れしたことを洩らしたら、途端に犯人扱いだ。参ったぜ、まったく」
「だけど、彼女と別れてからのアリバイはなかったのかい」
「それがあったんだ。あいつが出ていってから、俺はなんだかやりきれなくなってな。みっともない話なんだが、守川の奴に電話して、3時間ぐらいずっと愚痴ってたんだ」
 守川も、保の同僚の一人だ。軽い性格とは裏腹に、口はまずまず堅い男なので、そういった相談もしやすいのだろう。
「君の家の電話でかい」
「ああ。もっとも奴は携帯だったがな。ご丁寧に警察が調べてくれた通話記録によれば、8時50分から12時5分まで話していたらしい」
「その後は?」
「近所の居酒屋で飲んだくれていた。顔馴染みなんでアリバイ証言は完璧だ。そこは2時で看板なんだが、ずるずると3時近くまで粘っていたよ」
「マンションからその店までの距離は?」
「徒歩で2、3分ぐらいの所だ」
「じゃあ、十分じゃないか。梶山さんの生存が最後に確認された9時10分の電話から、死亡推定時刻のリミットである3時まで、君には花火会場へ出向くだけの時間的余裕が全くなかったわけだからね。それとも、その間に空白の時間帯があったのかい」
「そんなものはないさ。だが、警察は死亡推定時刻とやらにびっちり詰まった隙のない俺のアリバイに作為的なものを感じたらしくてな。俺がトリックを使ってアリバイをでっち上げたんじゃないかと言い出すんだ」
「トリック?」
 ややこしい話になってきた。保は少し頭を捻る。すぐに答えは出た。
「そうか。要するに、君が花火会場に行けない以上、殺害現場は花火会場ではないと警察は考えた。つまり、彼女は花火会場に出向いたあと、再び君の部屋に戻ってきた。そういう予定になっていたんだ。別れ話を切り出されたというのは嘘で、君は用事があるからと彼女一人で花火を見に行かせ、その間に電話や居酒屋でアリバイを作った。彼女が戻る頃を見計らって、こっそり店を抜け出し、部屋で待っていた彼女を早業で殺害し、再び店に戻る。で、3時に店を追い出されてから、彼女の車で遺体を花火会場まで運び、死亡推定時刻を曖昧にするために水辺に放置したと、そういうわけかい」
 言いながら、これではトリックというほど大したものにはならないと保は思った。が、折原は真面目な顔で頷く。
「まあ、大体そんなところだな。遺体から玉露と睡眠薬が検出されたことがネックなんだ。彼女が実際に玉露を飲んだ時間は、花火に行く前の7時頃じゃなく、会場から帰ってきた後、殺害直前だった。そうじゃなきゃ9時10分以降に胃の中に残っていないだろうし、花火会場で玉露を飲むのはさすがに不自然だからな。それも、部屋で待っている彼女を眠らせて、スムーズに犯行を成し遂げるためのものと思われている」
「でも、遺体から検出された玉露と君の家の玉露が同一のものであるという確証はない。それとも、そこまで調べが入っているのかい?」
「いや。確かに警察から当夜の玉露を提出しろと言われたんだが、生憎、その時あいつに出した分でちょうど茶葉が切れちまったのさ。ゴミ箱引っ掻き回して見つけた茶葉の袋は渡したんだが、そこに付いた僅かな残りカスからじゃ、まともな分析はできないだろうよ」
「つくづく運がないね。まあ、仮に成分が一致しても容疑が深まるだけだし、犯人なら隠蔽工作として偽物の茶葉を渡すと警察は踏んでいるだろうから、どっちみち無意味なことだ。それよりも、花火会場で玉露を飲むのは不自然なのかい。花火大会ってくらいだから、当然河岸には出店の類が並んでいたんだろう。最近はお茶ブームだし、缶飲料にだって玉露はあるんじゃないか」
「そうくると思ったぜ。だが缶の茶じゃないことは明らかなんだ。なんでも、ああいう缶の茶には、酸化による変色を防ぐための成分として、ビタミンCが混ぜられているらしい。梶山の胃の中の玉露からはそれが発見されなかった。つまり、正真正銘、それは茶葉から淹れられた玉露だってことだ。花火会場で、いったい誰がわざわざ茶を淹れるんだ。出店に行きゃ飲み物は何だって買えるのに」
 保は頷く。
「必ずしも有り得ないとは限らないけど、周囲から浮いてしまうことは確かだね。そうした行為が当夜目撃されていれば、警察が突き止めている可能性が高い」
「だろう」
「まあ取り合えず、その件は置いておこう。今の折原幸夫犯人説には、重大な欠陥がある」
「ほう。欠陥ね」にやりと意味ありげな笑みを浮かべる折原。どうやら気づいているようだ。敢えて保に喋らせようという腹らしい。「何だい、そりゃ」
「……うん。彼女が花火会場から掛けた電話だよ。この犯行計画は、あまりにもその電話の存在に頼りすぎているんだ。もし彼女が家族に電話を掛けなければ、彼女が花火会場にいた証拠はなくなり、君が苦労して作ったアリバイは無意味なものになる。そして、君には彼女が実際に電話を掛けるかどうかを前もって知るすべはない」
「俺が彼女に電話を掛けるよう指示したとしたら?」
「何のために? そんな不自然なことをすれば、彼女をいたずらに用心させるだけだと思うけれどね。それに、彼女が花火会場にいた証拠を残したいなら、もっと効果的な方法がある筈だ。電話なんかより、彼女の姿を直接目撃させたほうがよっぽどいいしね」
「そうだな。実際、花火会場であいつの姿を目撃した客は今のところ全くいない。会場は混雑していたそうだから不自然じゃないが、俺が犯人なら、なるべく多くの人間に彼女の存在を印象づけさせるだろうよ。それに大体だ、俺は10分や15分も、居酒屋で席を外してなんかいない。せいぜいが5分程度だ。それじゃあどう急いだって、部屋に戻って殺して帰ってくるのは不可能だろ」
「ふうん。そう言って、君は警察に反抗したわけだ」
「ああ。もちろんこれで警察があっさり引き下がるようだったなら、ここでこうやって頭抱えちゃいないがな」頭を抱える代わりに、折原はまた煙草に火をつける。
 どうやら警察は、彼を犯人扱いするべく、更なる仮説を打ち立てているらしい。それが、先ほど彼の言った『トリック』という奴なのだろう。
「説明して貰おうか」
「ああ。刑事たちが言い出したのは、あいつがそもそも花火会場には行かなかった、という推理なんだ。つまり、あの電話がフェイクだった可能性だ。それなら俺は、自分の部屋で彼女を殺し、遺体を花火会場へ運ぶだけで済む」
「でも、電話の声が彼女自身だったのは間違いないんだろう?」
「無論だ。だから、あれは俺が彼女に偽りの電話を掛けさせたってことになる」
「そうなると、当夜の花火の詳しい内容を、君や彼女はどうやってリアルタイムで知り得たというんだい」
「簡単さ」折原は軽く両肩を上げる。「花火ってのは会場客だけを対象としているわけじゃない。マンションの俺の部屋からも、あの夜打ち上げられた花火は見えたんだ。流石にアナウンスまでは聞こえなかったが、俺が彼女を(そそのか)して、部屋の窓から見える花火を、あたかも花火会場で見ているかのように家族に伝えさせるには十分だろ」
「成る程。もし彼女が君との関係を家族に秘密にしていたとするなら、アリバイ工作の理由にしても説明は付けられる」
「高校時代の同級生、以上の説明はされていなかったみたいだな、どうやら」折原は複雑な表情だ。「ま、そういうもんだろうが」
「でも、疑問は残るね。電話の存在がある以上、彼女の殺害時刻は9時10分以降。12時から君は居酒屋で姿を見られているから、犯行のチャンスは、守川くんと電話をしている間だけということになる」
「そういうことになるな。だが不可能じゃないだろう。花火を見せるために彼女をベランダに追い出しておけば、電話の際も彼女の声はあいつの所には届かないし、殺す段になれば、玉露に混ぜた睡眠薬が効いて無抵抗だ。そうそう、まず首を絞めたのも、呻き声を上げられないようにするためだったと考えれば納得がいく」
 保の疑問に淀みなく答える折原。犯人の独白を聞いている探偵役の気分である。
 ――解答のレベルは2時間サスペンス並だが。
「自首するかい」
「悪いが、俺はやってないぜ。天地神明に誓って」
「どうかな。まあしかし、今回は警察にしてはちょっとお粗末な推理だね。穴ぼこだらけだし、蓋然性も低い。花火会場で強盗に殺されたっていう方が、僕にはよっぽど納得できるな」
「俺もそう思う」
「じゃあ、なぜ警察はそこまでして君を疑っているんだろうね。君に固執する根拠はいったい何なのかな」保は折原が仏頂面で煙草を消し、新たな1本を取り出すのを見ながら呟く。自分も無性に吸いたくなってきた。
「おそらく、彼女の電話の内容だろうな」折原が言った。
「花火の様子か」そういえば、詳しい電話の内容を聞いていなかった。「それが?」
「ああ。こいつは彼女の家族に直接聞いたんだが、電話の中で彼女は、期待していた五右衛門がいまいちだった、と言っていたそうなんだ」
「ゴエモン?」
「花火の名前だよ。ほら、『上は大水、下は大火事』って有名な謎掛けがあるだろ。答えは五右衛門風呂だ。それにちなんで付けられたらしい。下からは灼熱の炎のように赤く燃え盛る花火が横一列に並んで吹き上り、上空からは水を模した青い枝垂(しだ)れ柳の花火が炎に覆い被さり、お互いが空中で混ざり合っていく。いわば、今回の花火大会の目玉的花火のひとつだ」
「詳しいね。それが、いまいちだったって?」
「そいつを聞いてちょっと気になってな、調べてみたんだが、別に今回の花火大会の運行に不備らしい不備はなかったんだ。時間が遅れて幾つかの出し物をすっ飛ばしたくらいでな。五右衛門も大成功で、客の反応も良かったそうだ」
 それなのに、何故彼女はいまいちなどと口にしたのか。折原は心なしか得意気な様子で説明する。
「あの川には結構広い中州があってな。花火大会の花火は毎年そこから打ち上げられる。それだと土手だけじゃなく川の両岸にも客席を作れるからな。で、当然そこは、かなり低い位置にある。一方、俺の住んでる部屋は、マンションの5階だ。まあまあ高い位置とはいえ、花火会場とは距離があるし、間には建物が立ち並んでいる。だから、花火が見えると言っても、どうしても下の方が隠れちまうんだ。まあ普通の花火は高く上がるから問題はない。しかし五右衛門だけは、『下の大火事』部分が隠れて見えなくなっちまったのさ。『上の大水』だけじゃ、普通の枝垂れ柳と大して変わらないからな。いまいちだったのも頷ける」
「ふうん。見えないっていうのは、本当なのかい」
「目算だが、確認はした。警察は多分、その辺りを考慮して、俺を怪しいと睨んでいるんだろうな」

  
 いつの間にか完全に日は落ちている。保はひっきりなしにテーブルを行き交う店員を呼び止めるタイミングを暫く窺っていたが、今は諦めた方が良さそうだと思い直し、折原に向いた。
「ひとつ、確認したいんだけど、いいかな」
「ああ。何でも聞いてくれ」
「その花火大会の様子って、テレビか何かで生中継されていたのかな」
「いや。五右衛門くらいは翌日のニュース番組で取り上げられただろうが、生ではやっていなかったな」
「成る程」保はおもむろに頷いた。「それなら安心だ」
「それなら……何だって?」
「安心していい、と言ったんだよ。今の話で、ようやく君への容疑が晴れた」
「本当か。……って、おい、やっぱりお前まで本気で俺のこと疑ってたのかよ」
「当然だろう。君が嘘八百を並べていないって確証はないんだし」
「友達甲斐のない奴だな、まったく」
 保が喫煙することを知っている数少ない一人である折原は、わざと見せ付けるように一息でフィルター近くまで灰を作り、残った吸い殻を灰皿に放り込んだ。
「で、いったいどういうことなんだ。何で今ので容疑が晴れる?」
「確認になるけど、彼女の生存が最後に確認された9時10分から死亡推定時刻のリミットである午前3時まで、君にはアリバイがある。唯一の隙は、森川くんと電話していた時間、君は声しか聞かれていないという点。しかし、君が自宅の電話からコールしている以上、花火会場まで出向いて彼女を殺害するのは無理だ。転送電話なんかの機械的なトリックを差し挟む余地はありそうだけど、露見性の高さと君の工学知識から考えて、とりあえず却下する。そうなると、あとはさっきの、殺害現場偽装のトリックを使った可能性だ」
「そいつが厄介だろ」
「いや、簡単に論破できるよ」保は珈琲で唇を湿らせる。「もしそのトリックを使ったとするなら、五右衛門がいまいちだった、という梶山さんの証言は明らかに不自然だ」
「何でだよ」
「だって、下半分が隠れていたんだろう。ただの枝垂れ柳にしか見えない花火を、彼女はどうやって五右衛門だと見抜いたんだい。毎年恒例の出し物なら予備知識があったかもしれないけど、今回の目玉花火なんだ。もし会場にいたなら、アナウンスでそれとわかっただろう。でも、君の部屋からじゃ、さすがにそれは聞こえない。そして、テレビの中継もやっていない」
「プログラムか何かを持っていて、それで確認した可能性があるぜ」
「でも、当日は時間が押していて、幾つかの出し物を飛ばしたんだろう。花火の表現はかなり抽象的なものなんだし、ひとつふたつ順番が狂えば、どれがどれだかわからなくなるよ。そんな中で、上半分だけの花火を見て、その名称を当てられる筈がない。だから、五右衛門の話題が出た時点で、彼女がその時、少なくとも君のマンションにはいなかったってことが、ほぼ証明される」
「だが、偽装を本当らしく見せるために、彼女に嘘の証言をさせたってことも考えられるだろう」
「いや、それはあまり上手いやり方とは思えないよ。花火にはハプニングが付き物だ。遅れに遅れて、電話の時点で五右衛門が打ち上げられていなかったかもしれないし、最悪、打ち上げが中止になる危険性だってある。だから、もし偽装するなら、もっと曖昧な表現に止めさせておく筈なんだ。よって、現場偽装トリックは有り得ない」
「そうか……」折原が得心の笑みを浮かべる。「確かに、それはそうだ」
「ところで君は、ラグランジュ点を知ってるかい」
「ラグランジュ点? 何だそりゃ」
「物理学用語なんだけどね。宇宙空間にAとBという2つの天体があって、それらがお互いに安定した軌道を保っている状態であるとする。そこに新たにCという第三の天体をおく場合、ABC三者の軌道が安定する点のことをそう言うんだ」
 保はテーブル脇に置かれていたペーパーナプキンを1枚摘み取って広げ、一緒に置いてあったボールペンで図を書いて説明する。
「ABを地球と月に設定すると、こんな感じに5つほどできる。宇宙ステーションの設置場所を決めるときなんかに役立つらしいね」
「お、おいおい。ちょっと待てよ。それがこの話とどう関係するんだ」
「彼女を殺した犯人についての考察だよ」
 保は口だけで微笑む。
「君が犯人じゃないとするなら、いったい誰が梶山さんを殺したのか。おそらくは新しくできたっていう彼女の恋人が犯人で、彼女はその人物に会いに行って、殺されたんだろうね。もちろん、君から聞いただけの情報では、それが誰かを特定することは不可能だ。そもそも君以外の容疑者すら話題に上っていないんだからね。けれど、幾つかのキーとなる事実から、最も安定する犯行現場を導き出すことは可能だろう。なら犯行時刻、そこにいた人間が犯人だ」
「安定する、犯行現場――」
「今回の条件、このAとBに相当する事実は、『玉露』と『花火』だ。即ち、茶葉から淹れた玉露を飲んでも不自然ではない位置、且つ、五右衛門をそれと理解した上で視認できる位置」
 ペーパーナプキンを裏返し、保はそこに川の図を書く。
「ここが花火会場だとする。花火が打ち上げられた中州を中心にして、両方の河岸に出店。土手を挟んで、その外側には住宅街」
 言いながら図を書き足し、最後に隅の方に点を記す。
「これが君のマンションだ。ここまでは会場のアナウンスは聞こえない。聞こえるのは、拡声器の性能にもよるけど、せいぜいが10キロ圏内だ」
 川の中州を中心に、大きな円が描かれた。もちろん折原のマンションは円の外である。
「ただし、この内側の部分は排除できると思う。あくまでも概算に過ぎないけど、この辺りは工場や産業用地だからね。そして、この外側部分は市街地で、住宅はほとんどないために、これまた除く。無論、ホテルや高層マンションなんかはあるけど、そういう高い建物からなら、五右衛門もよく見えただろうからね」
 結果、細いドーナツ上の部分が残った。
「この輪っかの上のどこかって事か」
「うん。そして、ここで更なる条件を付け加えるんだ。彼女は五右衛門をいまいちだといった。思ったんだけど、花火会場は当然、川に大して平行に位置取られている。これは、単に川の両岸だからというだけじゃなく、観賞位置の固定という役割も果たしているんじゃないだろうか。五右衛門は横一列の花火だ。当然、会場から見やすいよう、川に平行するよう打ち上げられた。それをもし川に垂直な方角から見たとするなら、それは本来の芸術性を損なってしまうんじゃないかな」
「川に垂直……そうか、橋か!」
「いや、橋では玉露の説明が付かない」
「じゃあ、船だ。屋形船とか。それなら玉露を淹れてもおかしくは……いや、待てよ。そんなもの、あの川に出ていたかな」
「おそらく出ていないと思うよ。理由はやはり五右衛門など、観賞方向が固定された演目の存在だ。誰も好き好んで、見にくい位置に行きたくないからね」
「じゃあ……」
「いいかい、川ってのは一直線に流れているわけじゃないんだ。当然、蛇行している。川筋が避けてくれるんだから、花火会場のある河岸の垂直線上に位置する土地だって存在するだろう」
 保は川のラインを何度もなぞって修正する。
「仮に川がこう曲がっていたとしよう。すると、会場部分の河岸の垂直線上にある土地と、このドーナツラインが重なる部分は、ここになる。当然、何カ所かできるし、まだ範囲も広い。しかし、闇雲に探すよりは、これらの地域に絞って探した方が見つかりやすいんじゃないかな。きっと犯人の家は、この辺りにある。そう言って反論してやれば、少なくとも警察は君への要らぬ疑いを取り下げると思うよ」
「そ、そうか。そうだな」折原はおおむね満足したようだ。保の推論を必死に手帳にメモっている。
 保としては情報量不足が少々不満だったが、ここまでの論理展開ができただけでも上等とするべきだろう。凶器や血痕など、議論の余地がないわけでもない。しかし、明らかに不自然な点は……
 不自然な点は、ない。
 ない、が……
 保は斜め向かいの、テイクアウトを注文する客を見据えた。

「折原」
 今から警察に電話しよう、と息巻いている友人を、保は呼び止める。
「どうした」
「さっきのラグランジュ点なんだけど――」煙草が吸いたい。「地球と月の例では5つできるって話をしたね。けれども条件を細かく見ていけば、実はその5点の中にも、より安定するポイントとそうでないポイントが存在するんだ。最も安定するのは、地球と月と第三点がそれぞれ等距離にある、即ち正三角形を描く2点。さらに条件を厳しくすれば、おそらく1点に絞ることが可能だろうね」
 怪訝な顔をする折原。「何が言いたいんだ」
「条件をひとつ忘れていた。遺体が濡れていたことだよ。確か君は、上半身が水に浸かっていたと言ったね」
「ああ。しかしそれは、死亡推定時刻を誤魔化すために――」
「君の証言を疑わなければ、当夜の彼女の行動予定すらも明らかではない状況で、そんな工作は無意味だよ。遺体を水に浸けたのは、そうせざるをえない別の理由があったからだ」
「別の理由?」
「血痕だよ。後頭部の傷口から流れ出る血を洗い流すため、犯人は遺体を川の水に浸した。なぜかといえば――」
「わかった」
 ぽんと手を叩く折原。
「犯行現場を河原に見せかけたかったんだな。もし河原で殺したなら、現場には大量の血痕が残っている筈だ。しかし別の場所で殺して運んでくれば、現場の血痕は少なくなってしまう。それを誤魔化すために、遺体を川に浸けた。完璧だろ」
「いや、残念ながら、それはない。そこまで気のつく犯人なら、死斑の移動なんかにも気を使って、死体が移動された痕跡を限りなくゼロにしようとする筈だ。でも、警察は死体が移動されたことをあっさり見抜いてる。君が最初に言っただろ。移動された痕跡があったって」
「そ、そりゃそうだが。むう……」
 折原はもう何本目かわからない煙草を取り出し、ライターを点火させようとするが、オイル切れなのか、なかなか火がつかない。保は自分のポケットから燐寸を取り出すと、火を灯して彼の眼前に差し出した。「お、サンキュ」
「1本」
「ん?」
「僕にも1本、もらえるかな」
「お前、自分で持ってんだろう」ぼやきながらも、彼は箱を差し出す。「ほらよ」
「ありがとう」
 保が肺の中に煙を満たすのを待って、折原はせっつく。「で、答えは何なんだよ」
「うん。犯人は犯行現場を血で汚すわけには行かなかったんだろうね」
「犯行現場?」
「おそらく本当は、犯人は首を絞めて殺したかったんだと思うよ。なるべく素早く、スムーズに犯行に及ぶため、睡眠薬も盛った。なのに殴ったのは、ハプニングがあったんだろう。睡眠薬の利きが甘くて暴れ出したとか。僕が予想しているのは、絞殺中に倒れ込んで、下にあった何かに頭をぶつけ、運悪くそれが致命傷になったって場合だ」
「それが凶器か。犯人の部屋にあったものだろ。テーブルの角か何かか?」
「さあね。とにかく犯人は焦った。遺体は移動させるから問題ないが、殺害現場に血痕が残れば、すぐに自分が疑われてしまう」
「だが、そんなもん消すだけだろう。ルミノール反応とか気にしてたのか?」
「その可能性はある。でも、まず第一に、濃い容疑を掛けられなければ、警察がそういった行動に出てくることはない。彼女と犯人の関係はまだ日が浅く、警察には目を付けられにくかった。だから、犯人が恐れたのは、警察じゃないんだ。犯行現場は、他人の目に晒されやすい位置にあったんだよ。だから血痕が残る前に、水に浸して流してしまおうと思った」
「おい。ちょっと待てよ。残る前って――」
「そう。遺体は死後すぐに水に浸されたんだ。犯行現場は屋外、それも川のすぐ近くだった。それを誤魔化すために、犯人は資材置き場に遺体を放置する際、再度水に浸けたんだ。彼女は電話の中で、花火会場にいる、とはっきり告げた。それは犯人が偽証させたんじゃない。素直に受け取れば良かった」
「だが、玉露は?」
「うん。最初にもっとそれを考えるべきだった。僕らは、『玉露』って響きにすっかり騙されたんだ。要するに、お茶なんだよ。なにも屋内で淹れたてのものを、湯飲みなんかで飲まなくたっていい。水筒にお茶を入れて携帯する慣習は、まだ存在するだろう。そして、それはどんな場合だい?」
 折原の答えを待たず、保は続ける。
「水筒を持ち歩くのは、主に屋外の活動中で、自動販売機や出店に簡単に飲み物を買いに行けない場面だ。花火会場のごく近くで、そういう場所がひとつある。加えて」
 煙草を灰皿に押しつける。人前で吸うのはこれっきりだ、と思いながら。
「花火についても、そこなら納得がいく。立体的に考えるんだ。もしそこで花火を見たなら、五右衛門のような花火はは間違いなく『いまいち』だろうね。 そこに彼女がいたなら、会場客で誰一人として彼女の姿を見ていないのは当然だ。それなりの広さはあるし、きっとそこはどたばたと慌ただしいだろうから、計画性があれば殺人は不可能じゃない。凶器になるような『石』はごろごろ落ちている。血痕が流れ出しそうになったら、すぐ川の水に浸けることが可能だ。そこで作業をしていたなら、出店に飲み物を買いに行くことはできないから、玉露入りの水筒を持ってきていてもおかしくはない」折原の顔が驚愕に見開かれていく。
「花火会場のようでいて、花火会場じゃない。それは、ここだよ」
 保は自分が書いた地図の一点を指さした。中央の、中州を。
「花火大会のスタッフ、おそらくは花火師のうちの一人が、彼女の新しい恋人だったんじゃないかな」

03/01/20


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