August 2004


辻真先『改訂・受験殺人事件

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132辻真先『改訂・受験殺人事件』(創元推理)
★★★★

 なんていたらいいのか、このう……
 困っちゃうんだな、私としたことが。
 原稿の出だしってやつが、こんなに頭を痛めるとは知らなんだ。(P.15)


 前前作、前作と、意外な犯人役の成立に腐心してきた辻真先のシリーズ第3作。

 読者や作者を犯人にして流石にネタが尽きただろうと思いきや、またまた大技を繰り出してきた。なんと、今回の犯人は……明かされず。しかし、「犯人のはしがき」と称された冒頭部分で、他ならぬ犯人自らが筆を取り、自分の罪を告白、さらには作中での探偵役の謎解きが大外れであることが明言されるのだ。さて、その意外な犯人役とは一体?

 ミステリを読んでいると、「不可能犯罪」という表現がしばしば登場する。もっともポピュラーな不可能犯罪のひとつは「密室」で、これは「犯行現場から犯人が立ち退いた形跡がない以上、この犯行は不可能であり、よって犯人は存在しないから犯罪も存在しない」という状況を意味する符号である。

 しかし、そんな状況は当然ありえないわけで、「目の前に犯罪が存在する以上は犯人も存在し、つまり犯行は可能であり犯行現場から犯人は立ち去っている」、即ち「密室はない」という暗黙の前提の上でこそこの符号は成り立つ。ミステリでいう「不可能犯罪」とは「不可能に見せかけた犯罪」というレトリックでしかなく、言葉通りの不可能犯罪を描けば駄作扱いされるのは自明なのだ。

 一方、本シリーズにおける「作者が犯人」や「読者が犯人」などの意外な犯人役の設定による不可能性演出は一味違っている。フィクションである小説内ならば上記の「言葉通りの不可能犯罪」はいくらでも描くことができるが、厳密な意味で作者や読者が犯人たりえる小説は、そもそも描くことができない。「不可能犯罪」があくまで小説内で完結する不可能性であるのに対し、意外な犯人役の演出は小説という媒体そのものに対する不可能性を追及しているからだ。

 では、この究極の不可能性演出をどう成し遂げるのか。無論、成し遂げられない、が正解である。「不可能犯罪」が「不可能に見せかけた犯罪」のレトリックであるように、この不可能性も何らかのレトリックによって誤魔化されるほかない。つまり、そういった不可能性を前面に押し出したミステリの出来映えは、そこに付加されるレトリックそのものがロジックとしての成立性を持つかどうかに掛かってくるのだ。

 このシリーズの今までの作品は、作者の公言によって不可能性のインパクトだけを前面に押し出し、レトリックについては文句が来ない程度に辻褄を合わせただけの、いわば広げた風呂敷の大きさで勝負するような構成であった。それでも十分面白い作品に仕上がっていたため、一定の評価は与えられて然るべきとは思うものの、どうしてももやもやとしたものが残ってしまうように感じた。

 一方本作には今までのような公言はなく、犯人の役柄については読者に伏せられて、一見なにが不可能性なのか分からない普通の小説のような体裁を取っている。そのお陰でファーストインパクトは少ないが、犯人の役柄とその成立のレトリックが最後に畳み掛けられるように明かされるため、読み終えた際のカタルシスは非常に大きい。

 言わずもがなのことながら、作中の事件自体にもきちんとした解決が与えられており、結果として本書は、純粋なパズラーとしてもメタミステリとしてもシリーズ中最も完成度の高いものになったといえるのではないだろうか。

 このシリーズはまだまだ続く模様。こうなると、続刊には更なる高みを期待してしまう。 to top


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