July 2006


麻耶雄嵩『メルカトルと美袋のための殺人
霧舎巧『名探偵はもういない
東野圭吾『変身

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189 麻耶雄嵩 『メルカトルと美袋のための殺人』(講談社文庫)
★★★★★

「それは論理のまやかしに過ぎない。
常に上位のモノは存在するという幻想だな。
そういうモノは論理的にしか存在しないんだ。
現実には∞に何を足したところで
∞にしかならないんだよ」(P.115)

 質の良い短編集には大きな欠点がある。収録短編を一作読むごとに十分なカタルシスが得られ、その余韻に長く浸っていたいがために、その都度ページをめくる手を止めてしまい、結果的に同じ厚さの長編作品よりも返って読了に時間が掛かってしまうのだ。実に贅沢な悩みだが、困ったものだ。文句なく満点をつけてしまおう――今の今更読んだ麻耶雄嵩の初短編集、『メルカトルと美袋のための殺人』。

 推理作家、美袋三条は友人である銘探偵メルカトル鮎に虐げられている。人の死を自らの探偵欲を満たすための餌としか捉えていないメルカトルに反感を覚えながらも、よく事件に巻き込まれる体質の美袋は何度となく彼に借りを作ってしまうのだった。今日もメルカトルの推理が冴え渡る!

 メルカトル鮎については今更語ることはない。前もって知っておくのは銘探偵という肩書きだけで十分だろう。初めて目にする美袋のキャラは、あまりにもありがちな助手キャラで笑った。否、笑えない。そもそも職業が作家の時点で関口某やら有栖川某と被りまくり。ミステリ書きはS探偵とM助手のペアが好きなんだろうか。するとM探偵S助手のミステリは斬新なのだろうか。今度書いてみよう。

 閑話休題。本作には概して上質な短編が揃っているが、お薦めは断然『遠くで瑠璃鳥の啼く声が聞こえる』。一見すると無理矢理一発ネタなのに、それを補って余りあるロジックとカタストロフィが津波のように押し寄せて来て、読み終わったあとに脳内で噛みしめれば噛みしめるほど味わい深い。よりによってこんなものを劈頭に持って来られる作者の思いきりの良さもまた凄まじい。

 仮に★評価の内訳をするなら、この短編だけで★4つは与えられるだろう。解説にもある通り、麻耶雄嵩作品では間違いなく『夏と冬の奏鳴曲』に並ぶ最高傑作であると私も断言できる。短編にしておくのが――いや、短編向けの作品であるのが実に惜しい。

 もちろん何度も言うように、その他の短編も悪くない。幽霊やら死兆星やらというオカルトめいたキーワードが飛び交う中、皆ちゃんとロジック重視であるところがポイント高し。

 間抜けな探偵役が長々と捜査を行ったり推理合戦したりするのが苦手な人にもお勧め。すっきりばっさり快刀乱麻のミステリが沢山楽しめてお得な一冊。 to top



190 霧舎巧 『名探偵はもういない』(講談社ノベルス)
★★☆☆☆

「納得できない状況を特定できたことが重要なんです。
謎を見つけることは、謎を解くことより、 何倍も難しいことなんですよ」(P.217)

 原書房ミステリー・リーグのラインナップに名を連ね、今年3月に同じくミステリー・リーグからその続編が刊行されたばかりの本作、『名探偵はもういない』が何故講談社ノベルスとして上梓されたのか? 私が本書を手に取った最大の理由はそれが知りたかったからだったりする。謎の答えはちゃんとあとがきで明らかにされる。もちろん本編の内容には全く関係のない話なのだが。

 少年は憧れの義兄である犯罪学者の木岬とともに吹雪の峠道を走っていた。帰り道が雪崩に遭い、心配する少年を差し置いて予約もしていないペンションを訪ねる木岬。そこでは一癖ある従業員や宿泊客たちが只ならぬ雰囲気を作り出していた。一触即発の状況下で、ペンションを災禍が襲う。はたして、全ての謎を解き明かせる名探偵は――どこにいる? 「読者への挑戦状」付き本格推理長編。

 それにしても、本作は読み辛かった。これは内容がどうという話ではなく、単純に表現技法上の問題だ。まず、物語の視点が登場人物間をコロコロ移動する、いわゆる神視点の文章。これは作者の他のシリーズでも言えることだが、今回はとりわけ濫用されており、多いときには1ページ中に3〜4人の視点が入り交じるという状態。それに加えて、登場人物の誰でもない、まさしく神(作者)視点の文章まであるため、まるで演劇の台本を読んでいるかのような落ち着かない気分になる。

 そして、ただでさえ感情移入しにくいこのドタバタ視点移動に、登場人物の奇怪な言動が加わる。この作品に登場する人物は、全員が全員気まぐれな子供のような性格なのだ。感情の流れが唐突でなかなか掴めないため、激しい口論をされようが、ムードのある展開になろうが、一向に興味がそそられない。しかも本作は、そういった感情の機微が重要な伏線となっているため、解決編では逆に白けてしまった。

 登場人物がわりとどうでもいいようなことをやたら回りくどく(論理的に?)説明するシーンが多いのも鬱陶しい。それは登場人物の推察力の高さを示すパフォーマンスだったり、やはり後々の伏線だったりするのだが、肝心の説明内容自体が陳腐なので、読んでいる最中に欲求不満が溜まってしまう。

 とまあ、いまいちずくめの本作だが、ではミステリとしての出来がどうだったかといえば、『並』だ。決して悪くはなく、取り立てて良くもない。というのも、サプライズのウエイトは純粋なミステリ部分ではないところに置かれているのだが、上にも書いたように感情的な盛り上げに失敗しているせいで、最大限の効果を発揮できていないのだ。

 思うに、作者は脚本家向けの作家ではなかろうか。深いテーマ性よりもケレンに走り、骨太なロジックと安っぽい感動演出(一応誉め言葉)で盛り立てる舞台演劇や2時間ドラマならば、思う存分実力を発揮できそうだ。

 続編は……まあきっとそのうち講談社ノベルスになるだろうから、それを待つことにしよう。 to top



191 東野圭吾 『変身』(講談社文庫)
★★★★

日曜に大学に来るのには、それなりの深刻な理由があるのだ。
(P.129)

 昔好きだった映画を久しぶりに観てみたら、思っていたほど面白くなかった、というような経験をしたことがないだろうか。ハラハラドキドキの連続だった筈の展開が、酷くちゃちで陳腐なものに感じられ、やれやれ記憶なんて当てにならないものだな、とがっかりしたり苦笑したり。でもそれって、本当に記憶のせいなのだろうか。本当はあなた自身の脳が当時とはすっかり変質してしまって、以前までの感性が失われてしまったのが原因なのかもしれない。

 多かれ少なかれ、長い人生の中できっと誰もが経験するであろう感性の変化を、この物語の主人公である成瀬純一も味わうことになる。しかも、急激なスピードでのそれを。希代のストーリーテラー東野圭吾が脳移植手術の恐怖を描いたSF長編。

 前作『宿命』と主題がプリミティブにリンクするこの物語は、ミステリという殻を捨て去ることによってドラマとしての厚みを増すことに成功している。話の筋は単純で、最初の数十ページぐらいで先が読めてしまうし、ラストに強烈なサプライズが期待できるわけでもない――それでも私は読み進む手を休められないくらい熱中してしまった。主人公の感じる恐怖と焦燥、絶望と渇望、そして最後の希望が文字の中から止めどなく湧き上がり、読む者の心を強く響かせるのだ。感動なくして本書を閉じることはできなかった。

 90年代の作品であり、斬新さという面においてはこの作品にイニシアチブはないだろう。リアリティという観点でも、現代医学に照らし合わせるまでもなく乏しさが目立つ。しかしながら、成熟している筈の理性が外因性の突発的な激情に支配されるがままになる不自然さを、ある種の精神病という『解』を用いて上手く緩和しているなど、各所に作者の巧みさが窺える。

 あくまで主人公の心情描写を中心とした構成のためか、亮子という魅力的な脇役の存在や刑事の手記など、幾つかの伏線が生かされ切れずに終わってしまい、そこは少し勿体ないように感じたのだが、それは粗ではあっても短所ではない。より傑作になり得たかもしれない、という無い物ねだりのようなものだ。作者の数多いヒューマン系作品の中でも上位に食い込む傑作であることは間違いない。

 最近映画化されたようだが、評を見ると期待薄なようで残念。いつか完全な形での映像化が望まれる作品である。 to top


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