March 2006


石持浅海『アイルランドの薔薇
東野圭吾『ブルータスの心臓

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180 石持浅海 『アイルランドの薔薇』(光文社文庫)
★★★☆☆

「薔薇の木は今、つぼみをつけている。和平という名のね。
簡単に駄目になってしまう弱いつぼみだが、咲けば美しい」(P.291)

 クローズドサークルへの徹底した拘りを見せる作家、石持浅海のデビュー長編。アイルランド情勢という込み入った政治的背景に端正なロジックと息詰まるサスペンスを融合させた意欲作。

 とにかく舞台設定が上手い。武装勢力の威圧によって孤立するというパターンはそれほど斬新なものではなく、天災や気象条件が原因という従来型クローズドサークルに飽きたミステリ作家にしばしば利用されるものだが(有名なのは東野圭吾『仮面山荘殺人事件』)、そこにアイルランド和平に纏わるいざこざというバックボーンを付加することで、物語に深みを出すだけでなく、水面下で錯綜する様々な思惑を印象付け、事件の動機――ホワイダニットにも繋げている。

 それだけでも見事だが、作者のサービスぶりは止まるところを知らず、登場人物の中に謎の存在である殺し屋『ブッシュミルズ』を配して更なるサスペンスの強化まで図っている。しかも、そんな複雑な状況を展開させながらも、物語のテンポが一切崩れることなく、スムーズに読み進められる点も好印象。作者の構成力は並大抵のものではない。

 ジャンルとしては犯人当ての部類に属し、あくまでも論理によって事件の謎が解かれていく潔い構成。ただし、ロジックの完成度自体はそれほど高くないように感じられた。私は真相とは別の人物を犯人と推理したが、解決編を読み終わったあともその人物が犯人である可能性が捨て切れなかった。犯人が自白しているため物語的には問題ないのだろうが、ミステリとしては若干詰めが甘い。まあ、設定勝ちとも言える作品なので、些事に拘る読み手以外にはそれは欠点たり得ないだろう。全体として十分に満足できるレベルだったのは間違いない。

 しかし本作を読んでみて、ミステリの可能性はまだまだ広がるという認識を新たにできたのは私にとって大きな収穫。次作で作者がいったいどのような地平を垣間見せてくれるのか、期待は大きい。 to top



181 東野圭吾 『ブルータスの心臓』(光文社文庫)
★★★☆☆

人間に一体何ができるというのだ。何もできやしない。
嘘をつき、怠け、脅え、そして妬むだけだ。
何かを成し遂げようとしている人間が、この世に何人いるというのだ。
大抵の人間は、誰かの指示に従って生きているだけだ。
指示がないと、不安で何もできないときている。
プログラム通りにやるだけなら、ロボットの方が優秀であるに違いない。(P.140)

 東野圭吾は、実に数多くのジャンルを書き分ける才能を有している。最近などはヒューマン系の泣けるドラマを描く作家として名が知れ渡っているが、実は初期に幾つか見られる、企業社会を背景に据えた犯罪小説こそが、彼の作風の真髄なのではないかと密かに思う。本作はその中の一作。推理小説に分類されているものの、その実はピカレスク色の強いサスペンスだ。

 主人公の末永拓也は、放蕩だった父親への憎しみから強い人間不信と権力志向を持ち、他人の上に立つ支配者の座を手に入れるためならいかなる手段をも厭わない性格の持ち主。邪魔な女を消すために同僚たちと殺人計画を実行に移すのだが、ハプニングが続出。やがて彼は、ひょんなことから過去に起きた事故の謎へと迫っていく。

 殺人リレーというアイデアがシンプルながら秀逸で、序盤はその計画を追う流れだけで十分面白い。古畑やデスノートのヒットを見ても明らかなように、頭の良い人間が完全犯罪を目論むというシチュエーションには惹き付けられるものがあるのだ。末永は犯罪者である反面、混迷した事件を自分に都合の良い秩序へと導く探偵役でもあるわけで、過去の謎を追っていく中盤の展開もしっかり読ませる。また、刑事たちも徐々に捜査の手を末永へと伸ばしていくため、終盤には一体どちらが先に真相に辿り着くのか、という三つ巴の緊迫した展開になり、結局最後まで読む手を休められない。

 ただ、期待を持たせる落ち自体はあまりすっきりしない形で、読後感としては良いものが残らない。物語の性質を考えれば末永が完全勝利して幕、というわけにも行かないだろうから、これは仕方のないことかもしれないが。とにかく読んでいる間だけ面白ければ良い、というのがエンタテインメントの骨子なので、十分期待には応えられている。そつがない分小粒感が漂うが、それは贅沢というものだろう。

 例えばここに大きなテーマ性でも付加されれば、確かに「天空の蜂」レベルの傑作になり得たのだろうが、おそらく作者としては本作にそこまでの重さを望んでいなかったのだと思う。気軽にハラハラできる作品として、旅のお供に最適の一冊だ。 to top


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