DOOR DOOR


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ドア・ドア


inside the door

 ナイフが胸に突き刺さった瞬間、私は我に返った。
 つい今しがたまでの、茫洋とした記憶。まるでずっと夢を見ていたようだ。
 胸に刺さったナイフの柄は、浅黒い男の手に握られている。長袖シャツの腕を伝って視線を上げていくと、そこには見覚えのない顔。その男は憤怒の形相を浮かべ、じっと私を睨んでいる。
 唐突に湧き起こる恐怖感。私は今、この男に刺されたのだ。こいつは私を殺すつもりなのだ!
 私は嬌声を上げ、両手で思い切り男を突き飛ばした。意表を突かれたのか、男はあっけなくバランスを崩し、尻餅を突いた。男の手を離れたナイフがやけに軽い音を立てて戸口に落ちた。
 戸口。そうだ。ここは玄関だ。私は外から来た男に、ドアを開けざまに刺されたのだ。
 男が隠しきれぬ驚愕に見開かれた目を私に向ける。よっぽど私の反撃が意外だったらしい。私は男が固まっている隙に、落ちていた血塗れのナイフを拾うと、大急ぎでドアを閉めた。ドアが閉まりきる瞬間、男のしまった、という顔が見えた。私はドアを内側からロックし、チェーンを掛けてから、胸元を見る。セーターに赤い染みが広がり、生暖かい液体の感触が臍の辺りまで伝い下りてきている。
 痛みを感じる以前に、激しい嘔吐感を覚えた。全身の血が一滴残らず胸の傷口から飛び出してしまったかのように、一気に血の気が引く。寒い。ふらつく体を何とか壁で支えながら、部屋の中へ向かう。ロング丈のプリーツスカートが足にまとわりついて走りにくい。
 早く警察を呼ばなくては。いや、その前にまず救急車だ。私は必死の思いで電話まで辿り着き、受話器を持ち上げた。119番をプッシュし、受話器を耳に当てる。何も聞こえない。慌ててリセットボタンを何度も押すが、コール音はおろか、通信音さえ聞こえない。電話線はちゃんとモジュラーに繋がっているのに。変だ。
 もしや、あの男に電話線を切られたのか。助けを呼ばれないようにするために。まさか、そんなことまで――
 本気だ。あの男は本心から、私の息の根を止めるつもりなのだ。
 どうしよう。このまま助けも呼べず部屋にいては出血多量で死んでしまう。いや、その前にあの男が止めを差しにやってくるだろう。ドアに鍵を掛けたって、他にも出入り口はあるのだ。
 私はドアと反対側の壁を見た。そこには十字の枠に仕切られた窓がある。窓の外は既に真っ暗だ。ここからでは見難いが、クレセント錠はしっかり掛かっている。しかし、窓ガラスを割られたらそれまで。あの男の進入を防ぎきることなどできない。
 あらかじめ電話線を切っておくほど用意周到な男だ。すぐに窓に目を付けるだろう。どうにかして男の目を掻い潜り、この部屋を脱して、誰かに助けを求めなくては。


 犯人は焦っていた。何ということだ。まさか彼女があんな抵抗を見せるとは。あの刺し方は完璧だった。ナイフはきちんと心臓に突き刺さっている筈なのに。この商売に就いてもう長いが、こんなトラブルは初めてだ。前情報から僅かな恐れがあったとはいえ、最悪の事態が起こってしまった。
 とにかく、このままでは非常にまずい。犯人はさりげない仕草で立ち上がり、尻ポケットから革手袋を出して填めると、ドアノブを捻った。案の定、ドアは開かない。内側から鍵を掛けられたのだ。
 犯人は思わずドアを拳で叩く。畜生。何でまたこのドアは、こんなにしっかりとした造りなんだ。台無しだ。あの女のせいで、全てがぶち壊しだ!
 いや、落ち着け。犯人は焦る頭で考える。まだ軌道修正は可能なのではないか。誰が見たって、あの女は致命傷だ。いずれにせよ、すぐに息絶えることになる。当初の筋書きとは異なるが、このまま放っておいても密室殺人事件は完成だ。
 しかし、一つ重大な問題がある。あの女は、凶器のナイフを持っていった。よりによってあのナイフには、他ならぬ犯人自身の指紋が付いている。これでは名探偵でなくとも、一瞬で事件は解決だ。
 今後のこともあるし、何とかあのナイフだけは回収しなくてはならない。あとは成り行きに任せても何とかなるだろう。素早く状況を整理した犯人は大げさな仕草で頷き、目の前のドアを見る。
 さて……。で、俺は一体どうやってこの部屋に入ればいいんだ?


 私はまず、窓のカーテンを閉めた。これで、あの男は中の様子を伺うことができない。あとはどこかに隠れ、あいつが窓を割って入ってきたら、暗闇に乗じてその窓から逃げよう。そう思い、私は倒れそうな体を引きずって、電灯のスイッチを押す。
 次の瞬間、私は自分の目を疑った。電灯が消えない! 何度スイッチを切り替えてもだめだ。
 信じられない。男は電気の配線までも掌握しているというのだろうか。しかし、電源を切るならまだしも、電灯を切れないようにするなんて、果たしてそんなことができるのだろうか。
 しかし、現実にこうなってしまっているものは仕方がない。何か他の手を考えなくては。部屋の中央で立ち竦んだ私の目には、5つのドアと階段が映っている。
 ドアの1つは玄関のドアだ。内側から鍵とチェーンが掛かっている。残りの4つはいずれも個室へと続いている。
 階段で2階に行くと脱出が難しくなる。かといって4つの個室はみな袋小路だ。窓すら付いていない筈だ。もしこの中に追いつめられれば逃げ場はない。
 どうする。私は何度も気を失いかけながら、逡巡した。


 犯人はドアから離れると、大きく迂回を始めた。途中で黒服に身を包んだ一人の男が近づいてくる。犯人は男を一瞥すると、吐き捨てるように言った。
「最低だな、あの女」
「どうする? このままじゃやばいぞ」
 早足で歩きながら会話する二人。
「窓に回る。そこから部屋に入って、女に止めを刺す。で、ナイフを回収して、あとは予定通りのトリックで密室を作る。これでオーケーだろ」
「大丈夫なのか」
「その後の展開にさしたる支障はない。俺はプロだぜ。うまくやるさ。任せろ」
「だが、窓を割ったら、密室にならんぞ」
「見ろよ」犯人は背後を指さす。「あいつ、カーテンを閉めた。何を考えているのか知れんが、うまくやれば窓は割らなくてもいい。まあ、いざというときの為に、ちゃんと準備はしておけよ」
 と、頭上に視線を遣る。
「わかった。で、最後の手段は?」
「今はまだ大丈夫だ。最悪、使うことになるかも知れんがな。お手上げだったら合図する。時間は? どれくらい猶予がある」
「長くてもあと5分で次のアリバイ作りに行かなくちゃならん」
「3分でケリを付ける。じゃあな」
 男にもらった水を一口飲むと、犯人は息を整えて窓に近づいた。
 案の定、カーテンの陰に隠れてクレセント錠の位置は見えにくい。犯人は自然な仕草で、外側から錠を外した。


 窓が軋んで開く音。続いて、誰かが床に足を着ける音。今、あいつが部屋に侵入してきた。
 私は聞き耳を立てながら、ますます困惑する。何故だ。窓ガラスが割れる音など全く聞こえなかった。男はガラスを割らずに部屋に入ってきたのだろうか。一体どうやって?
 クレセント錠が閉まっているのは、確かに確認した。念の為に、窓が開くかどうか試しても見た。先ほどの段階では、窓は開かなかった筈なのだ。
 あの男は人知を越えた技を持つ、魔法使いなのか。狭い個室の中で、私は恐怖に震えた。


 部屋に侵入する。女の姿は見当たらなかった。玄関のドアには鍵とチェーンが掛かったままだ。
 素早く辺りを探る。テーブルの下。家具の陰。どこにも隠れていない。そうすると、あとは奥の4つのドアと階段だけだ。
 犯人は階段を見る。下から見上げ、段の上に彼女がいないことを確認し、さっさと引き返す。
 と、床に何かがこぼれているのに気が付く。血痕のようだ。まだ乾いていない赤い滴りは、転々と、4つ並んだ一番右のドアに続いている。
 犯人は思わず低く笑い声を上げかけ、慌てて口をつぐんだ。そして迷うことなくドアの一つに近づき、ノブを掴む。


 私にはこの現実が信じられなかった。目の前のドアノブがゆっくりと回されていく。4分の1の確率なのに、男は間違うことなく、私の隠れている右から3番目のドアを選んだ。どうしてわかったのだ?
 ナイフからわざと滴らせておいた血痕の罠も通用しなかった。まるで私がここに隠れるという未来を知っているかのような犯人の行動。

 未来を、知っている?

 定められた未来。定められた行動。
 私の脳裏を、閃光のようなものが駆け抜ける。何だ、この記憶は?  何か、とても重要な……
 そもそも私は、何故逃げているのだろう。何故あの男に狙われなければならないのだ。謎、謎、謎。

 ――私は、誰だ?

 風が動く。ドアが開け放たれる。強い逆光で表情の見えない男が立っている。
「もう逃げられないぜ。この死に損ないが!」
 男が叫ぶ。私は意を決し、腰に構えていたナイフの切っ先を彼に向けて、自分の身体ごと彼に突っ込む。
 ナイフが男の腹に深々と突き刺さる。そこから鮮血が飛び出し、男の服と私の両手を赤く染める。
 だが男は全く動じない。戸口をその身体で塞いだまま、私の両肩を掴み、凄い力で押してくる。
「いい加減に、大人しくしろ」男が耳元で囁く。「お前はもう死んでるんだよ。だから早く倒れろ」
 嫌だ。私は死んでなどいない。まだ生きているし、死にたくなんかないのだ!
 男は私を床に倒そうとする。私は激しく暴れ、抵抗する。横になったらもう二度と立ち上がれないような気がした。私は必死だが、男は何故かドアの外を気にして本気が出せていない。何かを隠そうとしているのか?
 試しに力が抜けた振りをして体勢を崩し、男の脇からドアの向こうを窺う。やはり何もない。さっきまで私がいた部屋の奥には、のっぺりとした壁があるだけだ。
 いや、待てよ。壁の中央。そのやや上の方に、うっすらと何かが見えるような気がする。
 あれは……ドアだ。観音開きの重厚そうなドアが壁の中に小さく浮かんで見える。ドアの上には、緑色の四角いランプが灯っている。何だろう。あの表示はどこかで見たことがあるような――
 ひょっとすると、この男はあそこから私の部屋に侵入してきたのではないか。ドラえもんの「どこでもドア」のようなものでは。だったら、私もあそこから逃げられるかもしれない。
 私は床に引き倒されかけていた身体に力を漲らせ、男の腕から抜け出す。上体を起こし、中腰の姿勢で再び私を掴もうとする男の後頭部に向け、思い切りナイフを振り下ろした。
 渾身の一撃と共に、突如大きな音がし、視界が明滅した。空気を震わせ長く響く轟音とフラッシュ、これは雷だ。
 男はくぐもった呻き声を上げて、両手で頭を抱え、うずくまった。私は刺さったナイフをそのままにして、男の身体を飛び越え、ドアを抜けて部屋に戻る。目指すは壁に浮かぶあのドアだ。
 ドアの上の表示がさっきよりもよく見える。あれは、非常口のマークだ。何だか遠いけれど、きっとあそこから外に出られるのだ。私は歩を早め――
 唐突に、部屋の明かりが消えた。真っ暗だ。停電か。私が一瞬周りに気を取られていると、背後から何者かが飛びついてきた。
 あの男がまだ生きていたのか! 暗闇に乗じて襲いかかってきたのだ!
 しかし私の身体に回された手は複数あった。私は身動きも取れぬまま、幾つもの黒い腕によって空中に持ち上げられ、部屋の端へと運ばれていく。
 暗闇の中、私の目がキラリと光るものを捉えた。ナイフだ。ナイフの柄は、部屋の床に倒れた誰かの胸から突き出している。
 誰だ、あれは。さっきまであんなところに誰かいただろうか。
 見覚えのあるセーターとロングスカート。

 どくん。

 あれは、私だ。

 どくん。

 部屋の中で、私が倒れている。

 どくん。

 あれが、私。ならば、この私は一体誰なのだ。

「お前はもう死んでるんだよ」

 男の言葉が耳に蘇る。そうなのか。私は本当は、もう死んでいるのか?
 そして、魂だけが死んだことを知らず、逃走劇を繰り広げていただけなのか。
 でも、それならば納得がいく。
 定められた未来。私は死ぬべき運命だった。男が私の行動を見抜いていたのではなく、私自身が男に殺される運命を再びなぞっているのに気付かなかっただけ。
 電話が掛けられなかったのも、電気が消せなかったのも、私が肉体を持たない魂だけだったから。
 当然、窓の戸締まりを確認することもできない。私に窓が開けられなかっただけで、実際にはあの窓の鍵は壊れていたのだ。だから男は侵入でき、確実に私を刺すことができた。
 胸にこんな酷い傷を受けているのにさしたる痛みも感じず、自由に動けていたのも、薄々おかしいとは思っていたのだ。
 魂である私を掴む複数の手は、すると死神の手なのだろうか。自分の死に気が付いた私は、これから死後の世界へと連れて行かれるのか。
 死神に担がれ、あれほど逃げ出したかった部屋の壁を易々とすり抜けて、どこまでもどこまでも運ばれていく。
 私は天国へ行けるのだろうか。それとも地獄だろうか。まあどこでも良いのだけれど。これから行く世界が住みよい場所だったらいいなと、次第に薄れていく意識の中で私は思った。

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