マニアック・マンション
「いい加減、窓閉めてくれよ。寒いんだよ」
――後部座席の有太が咳き込む。「まだ病み上がりだってのに、まったくもう」 「衛に言えよ」 ――運転席で片手でステアリングを切っている聖は、すぱすぱと煙草をふかす。「俺は閉めたっていいんだ」 「閉めなくていい。煙いから」 ――衛が突っぱねる。「とにかく、君たちだけが頼りなんだから、しっかりしてくれよ」 3人はそれぞれに溜め息を漏らす。 「しっかりったってなぁ。陽子の気まぐれにも困ったもんだよ」 「なに言ってるんだ。彼女のピンチなんだぞ」 「どうだかなぁ。今日がなんの日だか、知ってるだろ。からかわれてるんだよ」 「おまえまでそんなことを! あいつはそんな奴じゃないって」 「まだ付き合って半年も経ってないんだろ」 「付き合う前の付き合いが長いんだって」 「――見えたぞ、あれだ」聖の声に、2人は言い合いをやめ、フロントガラスの向こうを見やった。 黒い針葉樹の森から、さらに漆黒の尖った屋根が不気味に突き出している。 〜マモル 2006/04/01 21:06〜 車を路駐させ、僕たち3人は無数の槍を地面に無造作に突き立てたような大きな門の前に並んだ。ここが笛戸邸と呼ばれる廃墟だ。 「噂には聞いていたけど、マジで幽霊屋敷みたいだな」と声を震わす有太。 「幽霊屋敷ね」聖は顎を一撫でし、ちょっと待ってろと言い置いて車の後ろに回る。 彼はトランクを開けてごそごそすると、やがて大型のハンドライトを手に戻ってきた。首の下から顔を照らす定番の芸をしながら、「肝試しにはこいつが必須だろ」 僕は頷く。「よし、行こう」 門に鍵は掛かっておらず、軋んだ音を立ててあっさり開いた。敷地内に足を踏み入れると、突然ぎゃあぎゃあという不気味な声とともに数羽のカラスが飛び立った。 「雰囲気だな」人知れず聖が呟く。 玄関ポーチへ誘うアプローチの石畳はところどころが黒ずんでひび割れ、その隙間から雑草が伸び放題になっている。脇の深い茂みでごそごそ音がしたかと思うと、緑掛かった光沢を持つ黒猫が一匹、足下を走り抜けていった。確かにこれはアトラクション並みだ。 おっかなびっくり歩いて、玄関ポーチの戸口に辿り着く。 両開きの重厚そうなドアを前に、僕たちの足は自然に止まった。 「どうする。行くんだろ」 「ああ」 僕は意を決し、両手で左右のドアレバーを掴み、下げながら押したり引いたりしてみたが、ドアはびくともしない。 「どうした?」 「鍵が掛かってる」僕は聖に答えてドアから手を離した。代わりに彼がドアに近づき、叩いて検分し出す。 「朽ちかけてるとはいえ結構頑丈そうだから、壊すのは手間だな」 「なあ。裏口とかあるんじゃないか。こんな場所だし、壁の一部が壊れていたりするかも」 「じゃあ有太、お前ちょっとぐるっと回って見てこいよ」 「ふ、ふざけんなよ、なんでオレが」 「言い出しっぺだろ」 「馬鹿言うなよ。オレは御免だよ」 「仕方ないな、じゃあ俺が」 言ってさっさと歩き出そうとする聖を慌てて止める。 「待てよ。ライトはそれひとつしかないんだ。バラバラに行動したら危ないだろ。ここは全員で行こう。それなら有太も文句ないだろ」 有太はおどおどと頷く。聖を中心にして、僕たちは屋敷に向かって右手側から回り込むように歩き出した。 雑草が伸び放題の壁際を、細心の注意を払いつつ進む。ところどころで瓦の破片や石を踏みつけるためか、草や土の上だけがやけにふにゃふにゃと足に触る。すぐ左にある壁の安定感と、その隔たりの奥に内包されるであろう得体の知れなさが相俟って、僕らの心理をいいように揺さぶる。 大きな屋敷だ。一見朽ちているようでも、ひとつひとつのパーツがしっかりした材質で作られているためか、破損しているような箇所は見当たらない。かまぼこ型を縦に伸ばしたような形の窓にはガラスの割れたものがあったが、どれも鉄格子で防護されている。内側を覗こうにも、分厚いカーテンが邪魔をしていた。大きくて頑丈。堅牢という言葉がぴったりのイメージだ。 「気を付けろ。坂になってる」 先頭を行く聖が忠告した通り、正面の壁を折れて屋敷の側面を暫く進んだ辺りから足下がどんどん下降し始めた。最初は緩やかだったが、進むほど傾斜が増していくような感じだ。この屋敷はどうやら山の斜面をそのまま使って建てられているようだった。 ちょうど一階分ぐらい下がった辺りで側面の壁が途切れ、僕たちは屋敷の裏側へ回り込む。そこで傾斜は止まり、裏庭は平らに均されていた。雑草も砂利に駆逐されて歩きやすくなっている。ここだけ立木などの障害物がないからか、砂利の白さが月明かりを乱反射するのか、空気がぼんやりと発光しているように思えた。なにもない空間を取り囲むような木々の中央を、屋敷を離れるように小道が一本延びているが、その先はまた斜面になっていて、どこまで続いているのかよくわからない。眼下には僕たちの住む麓の町並みが見えた。 「おい、あれ」 懐中電灯で屋敷の背面を照らしていた聖が僕たちを呼ぶ。どうやら裏口を発見したらしい。 裏口のドアはさすがにそれらしくこぢんまりとしていた。聖に促され、有太がドアに近付く。ライトの光が彼を先導するように動き―― 突如、なにかが光の中に飛び込んできた。恐ろしい顔付きをした、有翼の怪物――? 「ひぃぃっ!」悲鳴を上げる有太。「出たぁっ!」 「落ち着けよ、ただの彫刻だろ」 聖がその怪物を照射する。確かに、それは石で出来た彫像だった。高さは1メートルほどで、改めて見ると思ったより小さい。ドアの手前1メートルぐらいの脇の辺りで、僕たちを睨み付けるように立っている。 「なんなんだよこれ。なんでこんなところに」 「オブジェのつもりなんじゃないか」 「これはガーゴイルってやつだな」聖が博識ぶりを見せる。「西洋の鬼瓦みたいな魔除けで、本来は屋根の上に置くものだ」 言って、光を上方に向ける。 「もともと上にあったものが落ちて、そのままにしてあるのかな」 「そんなものはいいよ。有太、そのドアはどうなんだ」 「ちょっと待てよ」 有太はドアに近付き、調べ出す。しかし、すぐにこちらを向いて首を振った。 「駄目だよ。スライド式のドアみたいだけど、開きそうにない」 「スライド式? 引き戸ってことか」 「珍しい造りだな。鍵穴は?」有太に近付きながら、聖が聞く。 「見当たらない。なんか、特殊な開け方が必要なんじゃないかな」 「どうする、衛。壊すなら玄関よりはやりやすそうだが」 僕は考えた末、首を振った。「とにかく、別の出入り口がないかどうか調べてからにしよう」 2人は頷き、僕たちは探索を再開する。屋敷の側面に回り込み、傾斜を上っていくと、見覚えのある鉄柵が見えてきた。左を向くと、ポーチの庇が見えた。屋敷を一周して戻って来たのだ。 「結局入り口は玄関と裏口ひとつだけか。窓には鉄格子が填ってるし、どっちかのドアから侵入するしかないな」 こじ開けるとしたら、裏口だろうか。僕が考えていると、有太が思い付いたように口を開く。 「でもさ、陽子が中に入ったんだとしたら、どこも壊れてないのはおかしいだろ。つまりこの状況からいえるのは、彼女がこの屋敷には入らなかったってことなんじゃないか」 「あるいは、彼女が来たときには鍵が開いていた――つまり、だれかに招き入れられたか、だな」 聖が補足する。 僕は少し考え、さらに付け加えた。「もうひとつある。彼女が自分で屋敷に入るなんらかの方法を発見した場合だ」 「なあ、廃墟にしたって、この場所の管理者というか所有者は存在するわけだろ。陽子がこの屋敷を調べようとしたんなら、あらかじめそういう人から鍵を借りていたのかもしれないぜ」と有太。 「僕は聞いていない――けど、可能性はある」 「そうだとしても、俺たちには確認のしようがないぜ」 「ごちゃごちゃ考えるより、さっさと壊して入った方が早いかな」 「面倒臭いな。オレだったら、家の鍵なんか、こういった場所にスペアを隠しておくんだけどな」 そうぼやきながら、有太が玄関のドアマットを捲る。 マットの下に、古びた鍵があった。 〜ヒジリ 2006/04/01 21:35〜 まったく、面倒なことに巻き込まれたものだ。俺は鍵穴に拾った鍵を差し込んでいる有太の手元をライトで照らしながら心の中で悪態を吐く。 ただでさえ忙しいこの時期に、まるで降って湧いたかのような厄介事。長い付き合いである衛の猪突猛進型な性格には慣れているからまだ諦観できるが、陽子の気まぐれな行動には眉を顰めざるをえない。 衛の彼女である陽子が幽霊屋敷として名の知られた町外れ山中の笛戸邸へ取材に行ったまま戻らない、と衛から俺の車載電話に連絡があったのは、午後7時半を回った辺りだった。 「わけわかんねえんだけど。取材ってなんだよ」 苛立ちを抑えて尋ねる俺に、衛は勢い込んで事情を説明した。 「陽子の研究テーマの取材だよ。どうもその笛戸邸、すごい違法改築しまくっているって噂で。今でも密かに建て増しされているらしいんだ」 そういえば陽子は建築学科だった。それにしても――「建て増し? あそこって廃墟なんじゃねえのかよ」 「いや、確かに10年くらい前に住人が外国へ引っ越して以来、ずっと空き家になってたみたいなんだけど、どうも最近誰かがこっそり隠れ住んでいるらしくて」 「つまり、それが幽霊の正体ってわけか」 「噂だけどね」 「そんな噂目当てで陽子が出向いたってのかよ」 「メインは屋敷の方だからさ。とにかくその話は前々から聞いてて、夜は恐いから日中に訪ねるつもりだったらしくて、僕はバイトがあるから一緒には行けないって言ってあったんだけど、メールと電話が――」 頭が痛くなってきた。 「ちょっと待て。今運転中なんだ。用件を手短に言ってくれ」 花見のシーズンだ。どこに警察が網を張っているかわかったもんじゃない。 「その屋敷まで一緒に来て欲しいんだ。あそこ山の中で、近くのバス停には1時間に1本しかバスが出てないから、車があった方がいいし、それに陽子のピンチなんだ。聖の力がいるんだよ!」 衛は運転免許を持っていない。どうやら足に使うつもりらしい。面倒臭い話だ。 「あのな、その程度のことで掛けてくるなよ。陽子も子供じゃないんだし、すぐ戻ってくるよ」 「違うんだ! とにかく来てくれよ! 今、どの辺りにいるんだ?」 間の悪いことに、俺の車は衛の家のすぐ近くの通りを走っていた。どうしようか迷ったが、結局正直に答える。衛の口調にただならぬものを感じたのだ。こういう予感は外れたことがない。俺はステアリングを切って、予定していたルートを切り替えた。 「実はさっき電話があったんだよ、陽子から。助けてくれって、僕の携帯に」 車に乗り込んできた衛が開口一番にそう切り出す。 「なんだって! いつだ?」 彼は携帯の履歴を確認し、「ええと……19時3分。弱々しい声で、助けて、痛いよって。そのあとすぐに気を失ったみたいで、なにを聞いても返事が返ってこなくなったんだ。それで、君に連絡を」 「おいおい、警察が先だろ。ってか、その彼女からの電話、切ったのかよ!」 「切れたんだよ。なにかの拍子に電波が途絶えたかしたんだと思う。それで、慌てて何度も掛け直したんだけど、どれだけ鳴らしても全然出なくて。今、聖を待ってる間にも掛けてたんだけど、駄目だった」 「そういう重要なことを真っ先に言えよ、馬鹿」俺は車の時計を確認する。19時41分。「彼女の下宿には? 携帯はどこかに忘れただけで、もう帰ってるかも」 衛は首を横に振った。「電話したけど、留守電のままだった。やばい状況なんだよ」 「ひとりで危険な行動させるからだろ。大体、どうして止めなかったんだ」 「釘は刺しておいたさ。でも、日の高いうちに同じゼミの友達と行くから大丈夫って言われて」 「同じゼミの友達?」 「水萌とかいう子。宇頭水萌だったかな」 「みなも? ああ、あのポニテの女か。バレー部の。じゃあ一応単独行動じゃないわけだ」 「それが……結局その子に用事があるって断られたらしくて、今からひとりで行くってメールが今日の午後1時ぐらいに携帯に入ってて。僕がバイト終わってそれに気付いたのが5時回ってからでさ。それ以後音沙汰がないからこっちから連絡しようと思った矢先に――」 「ヘルプの電話ってわけか。その宇頭って奴には連絡取ってみたのか」 「いや。番号知らなくて。警察に電話しなかったのも、きっと取り合ってもらえないと思ったからなんだ。まだ半日も経ってないし、どこにいるかもはっきりとはわからないし」 「取り合ってくれないことはないだろうが、現段階じゃ表立って動きはしないだろうな。どっちみち通報するべきだが、詳細な情報は必要か。……電話のとき、なにか物音は?」 「それは――悪い、よく覚えてない。陽子の息遣いと衣擦れの音がうるさくて、聞こえづらかったし」 「そうか……」ハンドルに突っ伏して考える。「いや、待てよ。今日って4月1日だろ」 「なんだよ、藪から棒に」 「馬鹿。エイプリルフールだろ。引っ掛けられたんじゃないのか、陽子に?」 「そんな……彼女はそんな悪趣味じゃない」否定しながらも、衛はその可能性に思い至っていたようだ。煮え切らない態度に感じたのはそのせいか。 なんにせよ、幽霊屋敷にひとりで乗り込もうとする時点で彼女は十分悪趣味だ。「分かった。とにかく屋敷の方面に向かおう。ざっと調べればなにか分かるかも知れない」 衛は頷き、思い出したように手を叩いた。「そうだ。その前に、有太の家に寄ってくれないか」 「なんだよ、まさかあいつにも連絡したのか?」 「2人より3人の方が心強いと思って」 「あいつここ数日、風邪引いて学校休んでるって話じゃないか」 「さっきの電話じゃ元気そうだったよ」 しれっと宣う。相変わらず人を乗せることにかけては天賦の才能を見せる奴だ。家で寝込んでいたあの引っ込み思案がどんな甘言に惑わされたにせよ、似たもの同士としては同情を禁じ得ない。 俺は首を振り、腹を決める。 「仕方ないな。取り敢えず3人で一度その屋敷を調べてみて、なにもなかったら警察に電話しよう。それでいいな」 「ああ」 そんなわけで有太を彼の家で拾い、丸1時間かけて屋敷まで車を飛ばして来たはいいものの、中に入る前からこうもたついているのでは先が思い遣られる。 「開いたぞ!」 有太が笑顔でこちらを向く。観音開きのドアが手前に引き開けられ、不気味な軋み声を奏でた。 「聖」 衛の声に促され、俺は戸口に立って真っ暗な部屋の中を照らす。ドアの先にあったのは、ぱっと見の感覚で30畳はある真四角な吹き抜けの空間。どうやらエントランスホールのようだ。 ホールの正面中央に立派な装飾の施された広い階段があり、吹き抜けを取り囲む2階の回廊へと続いている。高い天井にはお約束のシャンデリア。背後の壁の上部に幾つか明かり取りの窓があるが、北側のためかほとんど月明かりも差し込んで来ない。 階段の向かって左手奥の壁に扉。左右の壁の中央にもそれぞれ両開きのドアらしきものが見られる。階段を上りきった先の壁にも幾つか扉の陰影があった。 さっき周回していた時に想定したよりも、遥かに広そうな印象だ。 「さてリーダー。どうする。どこから回る」俺は衛に尋ねた。 「とにかく、手当たり次第に行くしかないな。2階は後回しにして、右手の扉から順に探ろう」 「了解」 ライトを持っている俺が自然と先に立つことになる。俺は2人を従え、ホールを進む。一歩進むたびにぎしぎしと床が軋む。本当にこんな屋敷に人が住んでいるのだろうか。しかし、廃墟にしては床の埃の積もり具合が気になった。最低限の掃除はされている印象というか、歩いても目に見えるような足跡が残る様子はない。 ホール右側の壁にある扉は施錠されていた。廃墟のくせしてやけに戸締まりが厳重だ。取っ手の上に鍵穴があることから、何者かがドアの奥に潜んで内鍵を掛けているだけ、とも限らない。 俺たちはその場でターンし、今度は反対側――階段に向かって左側――の壁にある扉に向かう。残念ながらこちらも先程と同様、鍵が掛かっていてびくともしない。 「こりゃまず鍵束でも見つけ出さないことにはどうしようもないな」 愚痴をこぼしつつ、残った階段脇の扉に近付く。ここのドアは他と違って簡素で、鍵穴がない。 そこはかとない期待を込めて取っ手を掴むと、呆気ないほどスムーズにドアは開いた。 中ももちろん暗い。しかし、すぐにキッチンとわかった。流し台や冷蔵庫などの特徴的なオブジェが並んでいる。 「うわあ……やばいよ。オレなんか恐くなってきたよ」 背後で有太が情けない声を漏らした。 「今更なにを言ってるんだ。とにかく先に進もう」 「ちょっと待て」 あくまで強気の衛を手で制する。ひとつ思い付いたことがあった。俺は流し台の前まで来ると、蛇口を捻ってみる。ごぼごぼという音がして、透明な水が流れ始めた。 「水道が来てる。こりゃ誰か住んでるってのもあながち妄想じゃないな」 振り向いた瞬間、突然目の前が――比喩表現でなく――真っ白になった。 「ひいっ!」有太の叫び声。 見ると、衛が戸口で手を壁際に伸ばしていた。 「電灯のスイッチがあったんで、押してみたんだ」 「脅かすなよ!」 「悪い」 「――ま、とにかくこれで、ここには電気も水道も来ていることがわかったな。誰かが住んでいる可能性が高くなったってわけだ」 「おい。そうなるとまずいんじゃないか」完全に腰が引けた様子の有太がきょときょとし出す。「これ、住居不法侵入だよ」 まあ廃墟にしたって不法侵入には変わりがないが。「だとしたら? とりあえず出直すってのか」 「いや、誰かがいるのは承知の上だよ。そいつらが陽子になにかしたんだ。僕たちはなんとしてでも彼女を救わなけりゃならない。そうだろ有太」 「おまえ、おかしいよ、衛! なにやってるのかわかってんのかよ!」 「ここまで来たんだ」無表情のまま、自分に言い聞かせるような口調で答える衛。「毒食わば皿までだろ。探索を続けよう」 「落ち着けよ。とにかく電気を消せ。人がいる可能性が高くなったとなりゃ、動き方も変わってくる。考えようぜ」 口ではそう言いながらも、俺はさらにややこしくなってきた状況に頭を抱えていた。 〜ユウタ 2006/04/01 21:46〜 オレたちは再びホールへと戻ってきた。キッチンの奥にも扉があったのだが、計画を立てるのが先ということで進むのは控えたのだ。「人がいるのが分かった以上、隠密行動を心掛ける必要がある。幸いにして住人は出掛けている可能性が高いが、このでかい屋敷のどこかに引っ込んでいてまだ気付かれていないだけかもしれない」 ホールの中央に立ち、冷静に状況を分析する聖に続いて、衛が口を開く。 「有太、取り敢えず玄関のドア、閉めてきてくれ」 「な、なんでだよ」 「ドアが開いてちゃ、僕たちが侵入してることが丸わかりだろ。いいから言われた通りにしろ」 それももっともなので、オレは渋々ドアを閉めに行く。外から染み込んできていた月明かりが遮断され、ホール内がますます暗くなった。 闇の恐怖に思わずまたドアを開けようとして、抵抗感に気付く。「あ、あれ、おい、聖」 「どうしたんだ」 「鍵が掛かっちゃった」 「なんだって!」 2人が近付いてくる。衛がオレの脇からドアを弄ると、すぐに解錠できた。 「オートロックタイプだな。内側からはこのツマミを下げながらレバーを押せばいいんだ」 「焦らせるなよ。しかし、古風な外観にそぐわないシステムだな」 「なんにせよ、玄関の鍵はなくすんじゃないぞ、有太」 「分かってるよ」オレはポケットの中で鍵を握りしめた。こういった貴重品の管理は大抵自分に任される。本当は率先して動く聖あたりが持っていた方が効率がいいんじゃないかと思うが、本人は「よく物を落とす」と言って押しつけてくる。 しかし、よくよく考えるとこれってただの荷物持ちなんじゃないか? 「あ――聖、見てみろよ」 突然衛が声を上げた。オレたちの足下を指さしている。先程からライトに照らされていた玄関口の床に、僅かながら黒い斑点のような模様が付いていた。 「これ、もしかして血じゃないのか?」 確かに、上から血を滴らせたような染みだった。よく見ると、オレの足の下にも同じようなものがある。慌ててその場から飛び退いた。「おい、こっちにもある!」 「最初に入ったとき、こんなものあったか?」 しゃがみ込み、子細に観察しだす衛。 「見落としだな。完全に乾いてるから、今さっき滴ったんじゃない。かといって、色や風化の具合から察するに、そんなに古いものでもない。今日出来たものである可能性は高い」 「嫌な予感がするな」 聖は数メートル置きに点々と続くその染みを追って、ライトをホールの奥へと向ける。 血の滴る跡は、階段脇、右手奥の壁際で途切れていた。ちょうどキッチンへ続く扉と左右対称の位置で、なにもないただの壁だ。 「どういうことだ、これは」 衛が呟く。どう見ても、血痕は壁の中へと続いているとしか考えられない。 「おい、まさかこれって――」オレは2人の方を見て言う。「隠し部屋なんじゃ?」 「隠し部屋?」 聖が訝しげな表情で聞き返してくる。 「いや、陽子が違法建築がどうのとか言ってたんなら、そういう可能性もあるかと思って」 「確かに、有太の言うことも一理あるな」衛が賛同する。「それなら陽子が連れ去られた理由も分かるし、こんな廃墟に人が住んでいるのにも説明が付く」 「え、どういうことだよ」 「いいか、この廃墟はカモフラージュに過ぎない。ここの本当の住居は隠し部屋の向こうにあるんだ。陽子はその秘密を偶然知って、中にいる奴に連れ去られた。きっとそうだよ。間違いない!」 「だとしたら、もう俺たちの領分は越えているぜ、これは」 「とにかく、この隠し部屋を開けよう」 奮起した衛が壁に張り付くようにして調べ出す。 「有太、手伝ってやれよ」聖がオレの方を見て壁に顎をしゃくる。 「聖は?」そう尋ねると、「俺はライト役だ」とそっけなく返された。 くそ、ひとりだけ楽しやがって。オレはいやいや壁の方へ向かう。 漆喰の塗られた壁にはそこここに人の顔のような染みが浮かんでいて気味が悪い。できればあまり触りたくはなかった。どうしようかと思って見ていると、衛が舌打ちをした。 「駄目だな。丁度ここに切れ目があるのは分かるんだけれど、どうやって開ければいいのか見当が付かない」 「こういうスイッチってのは、隠されてるんだよな。普通」 「玄関のこともあるし、案外ハイテクで、静脈認証システムになっているかもしれんぜ」 「まさか。そんなレベルなら、俺たちが侵入した時点でとっくにばれてるよ」 「ちょっと離れた位置にあるって可能性はないのかな」再び壁と奮闘し出す衛を見ながら、オレは恐る恐る聖に意見を出す。 「離れた位置?」 「ほら、映画とかでよくあるじゃん。本棚の本を引っ張ると近くの壁が開くとか」 「このホールのどこに本棚があるんだよ」 「いや、例えだろ。ここなら例えば……」 オレは周囲を見回す。ドア。階段。柱時計。シャンデリア。怪しいのは―― 「ここの階段の欄干とか」 オレは階段に近付き、向かって右側の欄干に手を置くと、ぐっと力を込めた。 がたん、と音がして、衛の前の壁に穴が開いた。 〜マモル 2006/04/01 21:58〜 「おいおい、ビンゴだぜ!」聖の賞賛の声を背に、僕は扉の中を調べる。ホールと違って、中はコンクリートの打ちっ放しだ。戸口の向こう、すぐは踊り場になっており、その先は下り階段になっている。奥の方までは光が届かず、真っ暗だった。血痕は、踊り場や階段の先の方まで続いている。そこから立ち上る血の臭いだろうか――なんともいえない嫌な臭気が漂ってきた。 「とにかく行ってみよう」 僕は振り向き、2人に声を掛けた。有太が欄干から手を離すと、背後で音が響く。 「あれ?」 「おい、ドアが閉まったぞ」 2人の言う通り、壁は元通りになっていた。 「もう一度欄干押せ、有太」 聖の声に有太が欄干を押すと、再び壁がスライドする。 スライドは向かって右から左で、油圧式なのか動きはスムーズだ。完全に開くのに2秒とかからない。 「1、2の3で、欄干を離してくれ」 そう指示して、掛け声と共に欄干を離させると、離してから一拍置いてすぐにドアが閉まり始める。 「速いな。こりゃ、階段から滑り込むのは無理だな」 後ろで聖が結論を出す。 「ああ。ドアになにかを挟めば閉まるのを防げるかもしれないけれど、挟める適当なものがないし、警報が鳴るかもしれない」 「どっちみち閉じ込められるわけにもいかないし、手はひとつだな」 僕と聖は顔を見合わせ、頷く。 「ど、どういうことだよ」 蚊帳の外の有太が階段で叫んだ。 「大声出すなよ。もう一度欄干押してくれ」 「人使い荒いよな、衛も聖も」 欄干が押され、壁が開く。 「よし、そのままでいてくれよ。行くぞ、聖」 「もうどうなっても知らねえぞ」 そうこぼしながらも、観念した様子の聖は素直に先へ立って戸口の奥を照らす。 「お、おい、おまえらどうするんだよ!」 「奥を見てくる。絶対に欄干から手を離すんじゃないぞ」 「ええ! マジかよ! オレここでひとり?」 「誰かがそこで抑えてなきゃ閉まるんだから仕方がないだろ。すぐ戻ってくるから、なにがあっても離すなよ」 「おい! こんな暗い所でひとりにするなよ! おいっ!」 悲痛な叫び声を無視し、僕と聖は階段を下りていく。中間の踊り場で折り返し、さらに階段を下る。血の跡は続いていて、心なしか感覚が狭まっているような気がする。あの異様な臭気もどんどん強くなる。 「恐くないか衛。もしこの血が、陽子のだったら」 「やめろよ。考えたくない」 そうだ。陽子が――彼女がもう死んでいるなんて、考えたくなどない。 階段を下りきると、踊り場の右がすぐに開けた部屋だった。ドアはなく、入って振り返ると壁にぽっかりと四角い穴が開いているだけだ。 右手の壁に2つほど窓があり、そこから僅かに月の光が漏れ入っているが、この場を覆う闇の勢力の方が明らかに上だった。しかし、今そんなことは問題ではない。 「さっきからなんだよ、この臭いは」 聖も気付いていたようだ。この饐えたような、不快な臭い。それがこの場所でピークに達している。 「これ、血かよ!」 ライトが足下を嘗めるように照らす。床の至る所に血痕が――いや、もうこれは血溜まりと呼ぶべきだ――散らばっている。 「なんなんだよ!」 彼の動揺を物語るかのように、光の帯が無秩序に揺れる。その光芒が、一瞬壁際に立つ人影のようなものを捉えた。 「誰だ!」 僕が叫ぶと同時に、聖が人影に照準を合わせる。 「う、わ」 それは金属製の鎧だった。甲冑というのだろうか。馬と長い槍が似合いそうなその鉄の塊は、何故か黒光りする巨大な斧をその傍らに突き立てている。 暫くその甲に開いた目抜きの穴と睨み合っていたが、やがて聖が安堵の息を漏らす。 「飾り物だ。まったく、ここの住人はマジで幽霊屋敷を作ろうとでもしてるのかよ」 「油断するな聖。誰かが中に潜んでいるかも」 「そうだな、一応確認しておこう」部屋の奥へと歩き出す聖。 そのあとを追う僕の靴の爪先が、床に落ちていた小物を蹴飛ばした。からからと乾いた音が前方に滑り、壁の手前でなにかに当たって止まる。 「なんだ?」 聖が音の止まった辺りに近寄り、ライトの光を反射するその物体を拾い上げる。 「おい!」 振り返った聖が、ライトを当てながら手に持った物体を僕に見えるよう掲げる。 携帯電話だった。しかも、その機種は―― 「それ、陽子の携帯だ!」 僕は思わず駆け寄り、彼から携帯を引ったくる。乾いた血痕が付着したその携帯を開いて中を見た。間違いない。僕からの着信も入っている。 「ま、衛」 「確かに彼女の携帯だよ。やっぱり陽子はここに来てたんだ。絶対この近くにいる筈だ」 「衛っ!」 彼が叫び声を上げる。尋常じゃない様子だ。 「どうした――」 彼は無言で足下を照らしている。僕は促されるように、視線を下ろした。 洋服だった。春物っぽいピンクのハーフコート。女物だ。綴じ合わせの内側にはブラウスも見える。その手前にはブラウンのスカート。一式揃っている。 いや、そんなことはどうでもいい。問題は、それらにあたかも中身が詰まっているように見えることだ。そして、スカートの端から2本の白い脚のようなものが伸びている、という―― 「よ、陽――」 無造作に投げ出された生気のない太腿と臑――間違いなく人間の脚だ――その足先は、短いソックスとスニーカーに包まれている。見覚えはない――いやある? スポットが徐々に上半身へと向かっていく。乱れて半分ほど捲れ上がったティアードスカート――小振りな胸――彼女がいつも気にして――襟から伸びる華奢な首筋――なんだ、この赤黒い染みのような――そして、 首の先にライトが照らし出したのは、予想していたものではなかった。 最悪の展開は免れた――ように思えた。ただし一瞬だけ。 何故なら、首の上にあったのは、赤い液体の溜まった床だったからだ。 床だけだった。 要するに、 首から上が、存在していない。 〜ヒジリ 2006/04/01 22:08〜 「う、うわあああ!」その衝撃の光景に、オレは尻餅を突いた。汗ばんだ手からライトが滑り落ちる。 「陽子っ!」 衛が床に横たわった、首のない女に駆け寄り、その身体を揺さぶる。 「う、嘘だ! 違う! こんな筈はない!」 「お、お、落ち着けよ!」 そう言う自分も十分に落ち着いているとは思えない。心臓がすごい早鐘を打っている。俺はポケットの携帯電話を握りしめた。 「とにかく警察だ! 警察に連絡を!」 しかし、すぐに携帯の異状に気付く。 圏外だった。ここには電波が届いていないのだ。目の前が暗くなる。 「衛、戻るぞ!」 ライトを拾い上げ、女の死体――どこからどう見ても死体だ――に縋り付いて泣き叫んでいる衛の腕を引っ張る。 「嘘だ、嘘だ! 陽子の筈がない!」 「衛! しっかりしろよ! ここは危険だ!」 言うことを聞こうとしない衛を置いて、俺はとにかくホールへ戻ろうとする。 しかし、俺の目前で非情にも階段へ続く戸口の壁が閉まっていく。 「なっ!」 これは――有太か。 「有太! 有太、どうした! 有太!」 返事は聞こえない。ここから上までは声が届かないのか、有太の身になにかが起こったのか。どちらにしろ、ここからは出られない。 「――どうしたんだよ」ショックで呆然とする俺に、彼女を床に横たえた衛が声を掛けてくる。 「壁が閉まった。ここも隠し扉なんだ。有太の野郎、上で欄干から手を離しやがった」 「まさか、閉じ込められたのか」 「他に出口がなきゃな」 俺は辺りを見回す。やばいな。この状況はやばすぎる。 「畜生……なんでこんなことに。陽子……」 「陽子は自業自得だろ! 勝手にこんなところに乗り込んできて!」思わず声が荒くなる。「今の問題は、俺たちがどうやって逃げるかだ」 「有太に電話するんだ」 「……通じないんだよ。圏外だ」 「なんだって?」 状況を把握し切れていない様子の衛を尻目に、俺は部屋の中をライトで照らす。先程の隠し通路を除くと、部屋にある扉は2つ。他には窓が2つあるが、いずれも嵌め殺しの上、汚れて曇ったガラスの向こう側にはうっすらと鉄格子の影が見える。 窓に見切りを付け、俺はドアのうちのひとつに飛び付いた。住人か誰かに発見されるかも知れないが、もはや構っていられない。ガチャガチャとノブを捻る。 期待はしていなかったが、やはりドアはびくともしなかった。 衛は携帯電話を弄っている。「駄目だ、僕の携帯も通じない」 「こっちのドアは鍵が掛かってる」 「あそこの小さなドアは?」 俺は衛の指さす扉に向かう。ノブを捻るとドアはあっさり開いた。 「やった!」 「いや――」戸口の向こうには数段のステップがあり、その先にもドアがある。「まだ喜ぶのは早い」 そちらは、引き戸だった。ドアの形が統一されていないというのが、なんとも不可解だが…… 大方の予想通り――というか、もはや当然のようにこちらも開かない。しかし、取っ手の下に鍵穴のようなものが確認できる。 「どうなんだ、聖」 「駄目だ。鍵さえあれば開くかもしれないが」 「取り敢えず、こんなに暗くちゃ、どうにもならない。明かりを捜そう」 衛は立ち上がる。今の今まで取り乱していたのが嘘のように冷静だ。 「おい、大丈夫か、衛」 「絶対に許さない……敵を取ってやる……」 衛は呟きながら、壁を探り出す。腹が決まった、という様子だ。 俺は、もう一度死体の側に近寄った。首の切断面を直視しないようにしながら、女の身体を照らす。 そうだ。もしかすると、彼女、身分証を持っているかも―― 「あったぞ」 衛が声を上げる。電灯のスイッチを見付けたらしい。 かちりと小さな音がした。 そのとき――ふと嫌な予感がし、反射的に俺は身を引いた。 瞬間、俺の目の前を巨大な刃が横切った。 「うわああああっ!」 叫び声を上げると同時に、部屋が明るくなる。 「どうした、聖!」 目の前に振り下ろされたのは、巨大な斧だった。柄の根本を目で追う。斧は壁の、さっきの甲冑があった方から伸びている。 「こ、こ、こ、殺す気か!」 「うわ、なんだよその斧! 倒れたのか!」 「知るか! おまえがなにか弄ったからじゃないのかよ!」 「え?」 衛は慌てて手元のスイッチを弄る。すると、かちりと音がして、ゆっくりと斧が持ち上がり、壁際に立った甲冑の横へ戻った。やっぱりそうだ。 「スイッチが2つあったんだ。それで、こっちのスイッチを押したら」 かちりという音と共に、再び斧が振り下ろされる。 「おい、いい加減にしろよ! もうすこしで真っ二つになるところだったんだぞ! 大体どうしてこんな危険なものがここに!」 「トラップってことかな。僕たちのような侵入者を仕留めるための……」 衛の言葉が途切れる。俺たちははっと顔を見合わせた。 「まさか……彼女、この斧で」 「畜生! 誰が!」 「いいから斧を戻してスイッチには触るなよ」俺は立ち上がり、歯噛みする。「まったく、なんでこんなことになるんだよ。滅茶苦茶だ。どうするんだ、こんなんで!」 「もちろんここを抜け出して、警察に行って、彼女の敵を取る。本当はぶっ殺してやりたいけどな」 「逆に殺されるのが落ちだ。こんな残酷なことする奴なんだぞ。有太もきっとそいつにやられたんだ!」 「落ち着けって。聖らしくない。とにかく、なにかしら出る方法がある筈だろ」 無根拠な自信満々の衛に反論しかけたとき、背後でがこんという音が聞こえた気がした。 「なんならその斧を使って、ドアをぶっ壊すか」 俺は口元で指を立てた。「静かに」 気のせいじゃなかった。今度はドアがスライドするような音。 「おい、あの音は、まさか」 一歩一歩、段差を下りて近付いてくる足音。それは、先程の小さな扉の先から響いてくる。 身構える俺と衛。 「衛、電気だ。電気を消せ!」 はっとした顔になり、部屋の電気を消す衛。ライトもオフにし、部屋中が闇に沈んだ。 「もし敵だった場合は、わかってるな」 衛が頷くのが気配で分かる。指は斧を振り下ろすスイッチに掛けられている筈だ。 ドアが軋みながら開いていく。そこからおもむろに人型の気配が部屋に忍び込んでくる。 俺はそいつの顔の辺りを目掛けてライトの光を浴びせた。 「うわぁぁっ!」 人影は情けない悲鳴を上げた。 ――悲鳴? いや、その声は―― 「お、脅かすなよ、おまえら!」 扉から顔を覗かせたのは、半泣き状態の有太だった。 〜ユウタ 2006/04/01 22:34〜 まったく酷い目にあった!気分最低! なんて厄日だ! これ以上に最悪な出来事なんか起こりっこない! オレは目の前の2人に捲し立てる。 「2人が下りていって暫くしたら、突然上から声が掛かったんだ――」 − − − 「おい、ここでなにをしている?」それは若い男の声だった。振り仰ぐと、2階の回廊の手摺りから金髪を振り乱したような頭の男が顔を出している。 驚いたオレはその場から飛び退く。 男は金髪の下から爛々とした目で睨み付けてくる。――いや、よく見ると眼鏡をかけているのか。まだ若そうだ。 脚が震える。恐怖で上手く動かない。 懐中電灯もなにも持たず、この暗い中を男は機敏な動作で階段を下り――オレの方に向かってきた。 「ひいいいっ!」 悲鳴を上げると同時に金縛りが解けた。オレは脇目も振らず玄関へと逃げ出す。 「あ、待て!」 声が追い掛けてくる。オレは死に物狂いで扉に辿り着くと、汗ばむ手でロックを開け放って外へ飛び出す。 アプローチを抜け、門の外まで一気に走り抜けた。 路肩に停めてある聖の車に乗り込もうとしたが、肝心のキーがない。オレはパニック状態のまま道路へ逃げた。 カーブした山道を全速力で駆け下りていく。一歩足を踏み出すごとに、身体が奈落へと落ちていくような気がした。 勢いが付いて止まらない。いや、止まりたくない。死にたくない。 周りの景色は黒い森ばかりで、上下に揺れながらぐるぐる回る。 気持ち悪い。思わず足元を見た途端、足首がぐきりと音を立てて曲がった。オレは悲鳴を上げながら横向きに転ける。そのままごろごろと転がり、コンクリートで舗装された山肌に当たって止まった。 ――死ぬかと思った。咄嗟に受け身を取ったらしく、頭などは打たずに済んだようだ。 オレはそのまま山肌に凭れ、息を整えながら暫く様子を窺う。あの男は追い掛けて来なかった。 どうする。警察に電話か。オレは携帯を手に考える。 でも、警察を呼んだら経緯を詳しく話さなきゃならない。オレたちは住居不法侵入している。どんな状況になろうが、悪いのはこっちと見なされるかもしれなかった。 しばらく迷ってから、ふと見上げると、木々の間からあの屋敷の屋根がみえた。 ――そうだ。オレにはあの2人を置いて逃げることはできない。昔から連んでいる掛け替えのない仲間だ。 オレは思い直す。なんとか、屋敷に戻らなければ。 周囲を見回す。山肌の舗装部分はやがて途切れ、草が剥き出しの緩やかな斜面になっていた。細い小道のようなものも見える。ここならいけるかもしれない。 ガードレールを乗り越え、オレは未舗装の山中を登っていった。木々や草むらを掻き分けるように小道は続いている。頼りない道筋だが、このまま行けば、きっとさっきの屋敷の裏手に辿り着くに違いない。 まさしく予想通りだった。傾斜が緩んだかと思うと視界が開け、玉砂利の光る裏庭に飛び出る。さっきの不気味な石像と、その奥の裏口――あのスライド式のドア――も記憶のまま存在していた。 オレは息を整え、裏口に近付く。ドアを開くヒントは、近くにある。それがセオリーだ。 − − − 「住人が出てきたか。やばいことになったな」「まずはさっさと逃げるべきかな。その裏口がここに繋がってたってわけだろ」 「いったいどうやって開けた。玄関の鍵が使えたのか?」 「いや、あの石像があっただろ。ガーなんとか。あれが怪しいと思ってさ」 − − − 像に手を掛けると、簡単に動きそうだった。試しに傾けると、目の前でドアがスライドした。もうこのパターンには慣れている。像から手をを離すと、ドアは再び閉まった。ホールの隠し扉と同じような仕組みだ。 オレは意を決し、石像を傾けたまま根本を足で押さえ、ドアに向く。 − − − 「それで、像を蹴ると同時に戸口にダッシュしたら、なんとか滑り込むことができたんだ」語り終えたオレを、2人は神妙な目で見つめてくる。折角見捨てず助けに来てやったのに、嬉しくないのか? 「じゃあ、まさかまたドアは閉まったのか?」聖がオレが入ってきた扉を指さす。 「閉まったよ、オレの背後で。ギリギリ入れた」 「馬鹿、それじゃ結局閉じ込められたってことじゃねえか」 「内側からは開かないんだぞ、あれ。スイッチになるようなものも見当たらないし」 「――あ」そういうことか。 よく考えたら、オレが欄干から手を離したから、ホールの隠し扉は閉まってるんだった。 「さっさと警察でも呼んでりゃ良かったんだよ。役に立たないな有太は」 やけに棘のある口調で衛がオレをなじる。どうかしたんだろうか。ただ閉じ込められただけにしては様子がおかしい。 「こうなった以上、念入りにこの部屋を調べてみるべきだな。まだなにか仕掛けが残っているかもしれないし、よく考えたら身元の確認も済んでないだろ」 聖の言葉に、衛が頷く。……身元の確認? わけがわからない。 「なんだよ。2人とも変だぞ。なにがあったんだよ」 それにしても、やけに鉄臭いなこの部屋。 「あのな有太。今から電気を点けるが、驚くんじゃないぞ」 「え、え?」どういうことだ。 「いいから自分の口でも押さえてろ」 「俺たちの足下だよ」 足下? 下を向いた瞬間、部屋の電灯が灯る。 そして――オレは今まで以上に最悪な光景に遭遇した。 〜マモル 2006/04/01 22:50〜 最初にそれに気付いたのは、聖だった。「おい、この燭台、見てみろよ」 彼の示すものを見る。それは確かに燭台というか、蝋燭などを立てる受け皿だった。170センチある聖の顔の辺りの壁から直接突き出している。真っ黒に塗られており、蝋燭は立っていない。 「それがどうしたんだ」 「いや、この燭台。あっち側の壁もあるんだけどな。これにだけ血が付いてる」 「なんだって?」 近寄ってみる。確かにそうだった。黒い塗装のためぱっと見にはわからなかったが、燭台に乾いた血がこびりつき、真下の床にも不自然に血溜まりができている。 意を決したように、聖がその燭台に手を伸ばす。恐る恐る小さな受け皿の部分を下に引き下げると、がたんと音がして壁が開いた。 「ビンゴだ」 「けどやっぱりこの燭台から扉までは、2メートル近くある。誰かがここで押してなきゃ」 「な、な、な、なんでオレを見るんだよ!」 首無し死体を見て以来消沈していた有太が、血走った目を向ける。 「お、お、オレは嫌だからな!」 「心配ない。上に戻れば、あの欄干があるだろ。先に戻った奴があれを押せばいい」 そうだ。その通りだ。僕は聖に目で合図をすると、ライトを手に戸口を抜けて階段を上る。 やっとこの狂気じみた屋敷から出られる――その望みはしかし、呆気なく絶たれた。階段を上りきった先の壁が閉じたままなのだ。 そんな……欄干を押したときには通路の両端の壁が開いていたのに。 絶望的な気分で僕は辺りを照らす。すると、階段の途中に先程と同じような燭台があるのに気づいた。その位置まで階段を下りてみると、これも顔ぐらいの高さにある。僕と聖の身長はさして違わないから、揃いの位置なのだろう。最初に下りていくときは、きっと足下を中心に照らしていたから気付かなかったのだ。 触ってみると、やはり不自然に血がこびり付いている。下向きに力を込めると、音と共にドアが開いた。思ったより重い手応えだ。 試しに手を離すと同時に戸口に向かって駆け上がるが、間に合わなかった。距離自体はさっきより近く感じたのだが、スタートラインが段の途中にあるため、出足が遅くなるのだろうか。 僕は屋敷の主の悪意に閉口しながら地下室へ戻り、そのことを2人に伝えた。 「もう嫌だ! オレたちはここで死ぬんだ!」 頭を抱えて屈み込む有太とは対照的に、話を聞いた聖の表情が明るくなる。 「そうか。そりゃ朗報だ」 「え?」 「頭使えよ。俺たちは3人いるんだ。ひとりがここ、もうひとりが通路の先。それでホールにひとりが出られる」 「そうか!」考えてみれば簡単なことだ。ホールに出たひとりが欄干を押せば、2つのドアは開いたまま固定され、皆が無事に脱出できる。「よし、有太いくぞ」 「え。え。どういうことだよ」 「しょうがないな。衛、おまえここ押さえてろ」 聖が頭の働いていない様子の有太の腕を引っ掴み、立たせる。 「聖、気を付けろ。上にはその眼鏡の男がいるかもしれない」 聖は頷くと、有太を連れて地下室を出て行く。 よかった。これで屋敷を出たら警察に通報し、彼女の敵を取れる。 陽子…… 僕はまだ信じたくなかった。目の前に倒れたあの無惨な死体が、自分のガールフレンドだなんて。 有太と合流してから、僕たちは恐る恐る倒れていた首のない死体を調べた。聖は良くできた人形かもしれないとの考えを出したが、調べるにつれ、本物の人間だと思わざるを得なくなった。 死体は身分を証明するものをなにも身に付けていなかった。もしも陽子なら、いつもの赤いハンドバッグにカードや学生証を入れていた筈だが、そのバッグ自体、見当たらない。 服や靴は――僕にそういった興味が全くないこともあって――陽子のものかどうかという判断は、結局付けられなかった。僕の記憶では彼女がこんな衣服を身につけていたような記憶はないが、それは彼女の死を否定したい僕の脳がもたらす願望かもしれない。 そして、この女性の首は、結局部屋のどこからも見付からなかった。 部屋に存在する唯一のオブジェといって良い、斧を持った甲冑は特に念入りに調べたが、甲や鎧の継ぎ目までしっかり溶接され、分解することはおろか、壁から引き離すこともできなかった。とてもじゃないが、中に物が隠せるとは思えない。 また壁やドアを壊す手段として斧も調べたが、しっかり根本の可動部分でボルトで固定されていて、びくともしない。分かったのは、血痕の付着具合からこれが間違いなく彼女の首を切断した凶器であることだけ。 結局、首や身元を示す物は、誰かがこの部屋から持ち去ったとしか思えなかった。 本当に酷すぎる。いったい彼女の首を誰が、なんのために―― 自分の想像に身震いしていると、ぼんやりとした視界の端になにかの動きを捉える。 心臓がどくんとひとつ鳴る。 正面の扉。あの、鍵の掛かっていたドア。それが今、ゆっくりと開いていく。 燭台に手を置いたまま、僕はどうすることもできずにそれを見つめる。 ドアが軋んで開き、中から現れたのは、白髪頭をした白衣の老人だった。 「何者だ? 人のうちで騒ぎおって」 まずい。どうする―― そのとき、上からかすかに声が響いた。無事にホールに脱出でき、スイッチを押せた知らせだ。 受け皿から手を離す。燭台は元の位置まで上がるが、ドアは開いたまま――成功だ。 逃げられる。逃げるか? それが一番賢い選択だ。 しかし、僕の頭の中で恐怖より怒りが少しだけ勝った。 「よくも……よくも陽子を殺したな!」 僕は目の前の老人に向かって啖呵を切る。 「盗人がなにを……ん? なんじゃこれは! 死体か!」 「おまえが殺したんだろう! 殺して首まで切っておいて、白々しい!」 「馬鹿なことを言うな! 誰が自分の家で赤の他人を殺す?」 「自分の家?」 「そうだ。ここは私の家だ」 「だ、誰なんだあんたは!」 「最近の若者は礼儀を知らんと見えるな。私は笛戸。この屋敷の主人だ。今まで様々なものがこの屋敷に捨てられたが、死体というのは初めてだぞ」 「な――」 「うわああああっ!」 上で悲鳴が響き、同時に壁がスライドして閉まった。 「ふむ。まだ何匹かネズミがいたようだな。よく状況は分からんが、取り敢えず大人しくしてもらおうか」 「ち、近付くな!」僕は咄嗟に斧のスイッチへと手を伸ばした。 「近寄ったら、斧を作動させる!」 「なんと、斧のギミックも知っておるのか。そうか、そいつで首を切断したな。悪い子供たちだ!」 そう言うと、老人は懐から木の棒のようなものを取り出した。 「く、来るな!」 「安心しろ。少し眠ってもらうだけだ」老人は棒の先を口にくわえる。 次の瞬間、喉元に鋭い痛みが走る。手をやると、なにか針のようなものが刺さっていた。 吹き矢……しまった! 老人に飛び掛かろうとした僕の視界が、ぐにゃりと歪んだ。そして、耳鳴りと共に意識が遠のいていった。 〜ヒジリ 2006/04/01 23:05〜 「なにをやってるんだ、衛の奴」有太が欄干を押さえ、無事にホールへと脱出して、地下に向かって声を掛けたのに、一向に衛が上がってくる気配はなかった。 嫌な予感が膨れあがり、一旦地下へ確認しに行こうと思い立ったとき、ホール全体が明るく照らされた。シャンデリアが点灯したのだ。 「泥縄――って言うだろ」ホールに聞き慣れない男の声が響く。「泥棒を見て縄を綯うってやつ」 「うわああああっ!」 有太が叫び、階段から飛び退く。 「馬鹿、手を離すな!」彼を叱咤しつつ、俺は視線を上げる。 ――やれやれ、お出ましか。 階段の上に男がいた。ロープを小脇に抱え、手に拳銃のようなものを構えて、俺たちを睥睨している。 「おれはまさにその泥縄だったんだけど、意外に有効じゃないか。こうやって君たちの方から戻ってきてくれるんだから」 「ひ、ひ、聖!」 まずい状況だ。あの拳銃が本物である可能性は低いが、身をもって確認する勇気はない。 どうする? 男の身なりは今風で、小綺麗な感じだ。髪は脱色しているのか金髪に近いが、日本人であるのは間違いない。年の頃は二十歳前後か、俺たちよりずっと低いかもしれない。となれば、懐柔は十分可能か。俺は有太とは逆に階段ににじり寄る。 「下手な真似はよした方がいい。見た通り、今はこっちの方が立場が上なんだ」眼鏡の男が牽制する。「こいつはモデルガンだが、連射もできるし当たると痛いぜ」 「……勝手に入ったのは謝るよ。お望みとあらばすぐに出ていく。聞きたいんだが、君はここの住人なのか?」 「当然だろ。ここ10年くらい外国暮らしをしていて、帰ってきたらこんなにぼろくなっちまってた。世間じゃ廃墟みたいに言われているけど、住めば都って奴でね。これでもおれの部屋は綺麗なんだぜ」 「悪かったよ。でも、違法改築ってのはどうなのかな。この地下室といい、地下の甲冑といい、危険極まりないだろ」 「趣味だよ趣味。親父がマッドサイエンティストでね」 親父――? まだ住人がいるってことか。 「でも消防法には完全抵触だ。どうかな、それをお上に黙っておくのと引き替えに、この場は見逃しちゃもらえないだろうか」 「し、死体も通報されちゃ困るだろ!」 有太が震える声で叫ぶ。あの馬鹿……それは今切るカードじゃない! 「死体? なんのことだ?」 「おまえらが殺したんだろう!」 「残念だけど、あたしたちは知らないよ」 声と共に、階段脇のドア――キッチンだ――が開き、白髪の老婆が姿を現した。胸に見覚えのある黒猫を抱いている。 「うひいいいいっ!」 「ああ、母さん。起きたのかい」 眼鏡の男が老婆に声を掛ける。おいおい、ここにはいったい何人住んでるんだ? 「あの人から内線で起こされたわ。泥棒を一匹捕まえたって。なんでもそいつ、首無し死体をうちに捨てに来たって言うじゃないか」 ――しまった。衛が…… 「ま、ま、衛をどうしたんだよ!」 「ちょっと眠ってもらったんだよ。英人。こいつらをふん縛っておやりなさい!」 「や、やばいよ、逃げよう聖」 「あのな。衛を置いておけないだろ」 「そういうことだな。悪いけど大人しくしといてくれ。いまいち事情が飲み込めないが、親父は危険な武器を沢山持ってるからね。マモルって奴の命が惜しかったら、抵抗しないことだ」 エイトと呼ばれた男がモデルガンをその場に放り、ゆっくりと階段を下りてくる。 〜ユウタ 2006/04/01 23:47〜 「さて……これで全員が揃ったというわけだ」白髪の老人が戻ってきてそう口火を切った。 オレたちが今いるのはこの屋敷の応接間と思しき広間で、玄関側からホールを見て左手にあった扉の奥、廊下を隔てたさらに先に位置する部屋だ。 中央にガラスのローテーブルが置かれ、その周りを長短4つのソファがカギ括弧(「」)のような形で囲んでいる。 床には高そうな柄の絨毯が敷き詰められ、壁の一面にはテレビや酒、謎のトロフィー類を収納した大きな収納棚が置かれ、おまけにクジャクやキジなどの剥製が至る所に飾られていた。そのどれもが年代物に見えた。 オレと聖は長いソファのひとつに座っている。先程までテーブルを挟んだ向かい側のソファには老婆と眼鏡の青年が並んで身を沈め、オレたちをずっと見張っていたのだが、部屋に戻ってきた老人がひとり扉側の短いソファを陣取ったため、皆の視線は今そちらに向けられている。 「全員ってのは正確じゃありませんね」オレの左から鋭い視線を老人に飛ばす聖。「俺たちの仲間がひとり足りない」 「彼はまだ目覚める気配がないからな」老人は懐からシガーケースを取り出し、中から短くなった葉巻を選び出す。「今のところは私の研究室で丁重に休んで貰っている。まあその方が安心だろう? 我々も、君たちも」 葉巻を口の端に銜え、老人は慣れた手付きでテーブルの上にあったライターで火を点けた。 「ロープを解いてもらったことには感謝しています」聖の言葉にオレは思わず腕をさする。「でも人質を取るやり方は感心できませんね」 「それでいい。我々は善良な市民ではあっても聖人君子ではない。不逞の輩にまで慈愛を注ぎ、敬われようと考えているわけではないのだからな」2〜3口吹かしただけの葉巻を、灰皿でさっさと揉み消す。「さて。落ち着いたところで、まず自己紹介を済ませておこうか。本来なら君たち侵入者はフェアな情報を得られる立場ではないが、円滑な話し合いのために妥協してこちらも名乗ろう。私は笛戸名貞夫。この屋敷の主で、職業は学者だ。隣りにおるのが家内の枝菜 「この可愛いのはあたしのペットの『てんたくる』よ」 エナとかいう婆さんが抱き抱えた黒猫の紹介をする。緑色の艶が不気味なてんたくるは暇そうに欠伸をした。 「俺は端田 聖がオレたちを紹介する。なにも大学名まで言わなくてもいいんじゃないかと思うが、どうせ聞かれそうな気もしたので黙っていた。 「家の前に置いてあった車の持ち主は?」 エイトとかいうとっぽい青年が聞き、聖は「俺です」と素直に答えた。 「ふむ。で、君たちが私の屋敷に無断で侵入するに至った経緯だが、レポート取材のためここを訪れる予定だった同じ学生仲間が『助けてくれ』という連絡を寄越したまま消息を絶ったため、あくまでも廃屋と認識していたこの屋敷を探索しその仲間を見付けようとしていた、ということでいいのだな」 「ええ」 しれっとして頷く聖。最初から誰かが住んでいる可能性があると知っていたことはしっかり伏せられている。 「こちらからも確認したいんですが、本当に今日、この屋敷に彼女――三亭 「さっきも言ったように、私は1日中地下の研究室に籠もっていた。誰かが訪ねてきたとしても気付けんよ」 「他のお二方も」 聖が老婆と青年を交互に見遣る。 「さあ、あたしも気付かなかったねえ」老婆は答えた。 オレはエイトの言葉を待つ。彼は暫く首を傾げ、「その陽子って子の特徴は?」と聞き返した。 「特徴――ですか」眉を顰める聖。 「それが分からなきゃ判断のしようがないね」 「判断?」 口籠もる聖に代わってオレは口を開く。 「身長は155センチくらいで、ショートカットの……こう、なんていうか活発そうな感じで」 「衛――とかいう男の彼女なんだろう。そいつの携帯に写メとか残ってるんじゃないのかい?」エイトが自分の父親に目配せをする。 オレたちの携帯は、さっき捕まったときに奪われ、纏めて保管されていた。もちろん、外部との連絡手段を絶って助けを呼ばれないようにするためだろう。 老人は面倒臭そうに白衣のポケットから幾つかの携帯電話を取り出す。 「あの青年の携帯は確か……これだな」 思ったより記憶力がいいようだ。オレは老人に頷いて、「そうだけど……勝手に見るのは……」 「まあ、こういうときだ。仕方なかろう」 老人は携帯をエイトに渡す。彼は暫く携帯を弄っていたが、やがて「これかな?」と携帯の画面をこちらに向けた。 衛の隣で笑顔を見せる女の子――間違いない。彼女が既にこの屋敷の地下で物言わぬ――まさに『物言わぬ』だ――死体となっているだなんて、想像するだけで暗澹とした気分になる。 オレと聖が無言で頷くと、彼は画面を眼鏡に近づけ、「ふうん、可愛いね」と感想を漏らす。 「見覚え、ありますか」 「ないね。全くない。そもそもおれは今日この屋敷で君たち以外の他人を見掛けていないし」 なんだよ。じゃあ結局なにも見てないってことなんじゃないか。さっきの思わせぶりな態度はなんだったんだ? 「どうやら、私たちに君らの望む情報は提供できんようだな」 さっさと携帯を片付け、老人がそう纏める。 「ともかく話を進めようじゃないか。地下室に転がっている問題の死体だが……あくまでもあれを持ち込んだのは君たちではないと言い張るわけだな」 「もちろんです。何度も言うように、俺たちは陽子を探しに来てあの遺体を見付けただけなんですから」 「それを証明できるかね」 「それは……」聖は口籠もりかけるが、すぐに老人を見据えた。「俺たちの役目じゃない」 「成る程。もっともだ」老人は素直に引き下がる。「だがな、あれが君たちの探していた陽子という女の子なら、殺害の動機は私たちにはない。懇意だった君たちの方が断然疑わしいということになる。そうじゃないかね?」 「違いますね。こんな廃屋同然の屋敷に隠れ住んでいるような人間が影でこそこそとなにか違法な行いをしていたとしても、俺は驚きません。そういったものを迷い込んだ陽子がたまたま目撃してしまったなら、口封じのために殺された可能性は否めない」 「なんですって、糞ガキ!」 聖の暴言にいきり立つ老婆を、彼女の夫がたしなめる。 「黙りなさい、みっともない。可能性を検討しているだけだ」 「お気に障られたなら謝ります。動機から話を進めるのはあまり好きではないので、きつい言い方になってしまいました。それと、否定した理由はもうひとつあって、まだあの遺体が陽子だと決まったわけではない、ということです」 「え?」一瞬わけがわからなくなる。「なに言ってんだよ。間違いないだろ! あれが陽子以外の誰だってんだよ!」 「いや有太、ここは用心深くいかないと。身分証の類もなかったし、服にも見覚えがないっていうし、彼女じゃない可能性は捨て切れない。俺としてもそうあって欲しいしな」 「成る程。あれが別人であるのなら君たちは無関係だと、そう言いたいわけだな」 「ええ。ただ……」 「ただ?」 「彼女の――陽子の携帯がすぐ側に落ちていたことから、あの遺体が陽子と無関係である可能性もまた低いと考えざるをえない」 「疑いは変わらずというわけだな。首さえ出てくれば話は早いのだが、どこからも見付かっておらん」 「あなた方の言うことを信じるなら、ですがね」 「無意味な嘘は吐かんよ。さっき私と英人で手分けして隈無く探した。現時点でこの屋敷の中に首は存在しない。これは観測された事実だ。なんならあとで君たちにも自由に調べてもらって構わんよ」 「本気で隠そうと思えば、首なんてどこにでも隠せます」聖は室内を見回す。「たとえばそこの剥製の中にだってね」 「わざわざそんな手間など掛けて隠そうとするものか。まあ良い。首の話は後回しだ。私は無益な言い争いが嫌いでね。手っ取り早く意見を述べよう」老人はそして、意外なことを言いだす。「実は、私個人としては、君たちの言い分には何分かの信頼性があると考えておる」 「どういうことです」 「さっきの中座の間にな、簡単に死体の検分を行ってみたのだ。といっても首がないから、外傷の有無と血液や組織を調べたぐらいだがな」 馬鹿な。オレは身を乗り出す。「し、死体損壊じゃないか!」 「何度も言うが非常事態だ。やむを得んだろう」 「そんな! まずは警察を呼んで――」 「それはできんのだよ、悪いがな。その話も後回しだ」 「後回しって、そんな馬鹿な!」 「有太、落ち着け」聖がオレと老人を睨む。「どうやらこの人にはこの人なりの考えがあるらしい。取り敢えず大人しく聞こう」 「聖……」 「良い心掛けだな。年寄りの言葉は聞くものだ。まあ私も医学は専門外なので鵜呑みにはしないでもらいたいが――まず、死体の性別は女性で間違いなかろう。年の頃は10代後半から20代前半。硬直具合と直腸温から死後5時間は経過していると思われる。今が0時2分だから、19時2分頃ということだな。素人判断ゆえ、慎重を期すなら2〜3時間の誤差は見込んでおくべきだが」 「すると、前後に取って17時半から20時半の間ということですね」 「うむ。私の見込みでは5時間はほぼ確実――つまり広く取っても17時から19時だがな。身体に目立った外傷はなく死因は特定できなかったが、皮膚や血液を調べた結果、少なくとも毒物によるものではないと判断した。一部の神経毒という可能性は残るがな。血液型についてはサンプル不足のため特定できず。現場に残された出血量から首が切断されたのは生前もしくは死後すぐの可能性が高いが、断定はできん。むしろ問題となるのは首を切断した凶器だ」 「あ、あの斧じゃないの……ですか」 「いや、十中八九あの斧に間違いない。斧に付着していた血液は死体のものと一致したし、首の切断面の様子も斧の形状や威力と合致する。そして、この事実から導き出せるのは、首の切断がこの屋敷の地下室で行われたということだ。あの装置は移動できないからな。そうなると、21時に屋敷を訪れた君らが犯人である可能性は低いと言わざるを得ない。なにせ死亡推定時刻は19時で、切断時刻もそれに近いのだからな」 「成る程。それで俺たちの証言に信頼性がある、と」 「あくまでも何分か、だ。いいかね。君らは21時にこの屋敷に来たと言ったが、その証言自体に疑いを向ければ全ては崩壊する。仮に昼過ぎに君らが、まだ首の乗っていたあの女と共にこの屋敷を訪れ、19時に女の首を切って、それを隠すのに2時間奔走していたとしても、なんら不都合は起こらんだろう」 「無茶苦茶だ! そもそも死体はこの屋敷の中にあったんだぞ。どう考えたって、犯人はあんたたちだろ」 「そうですね。誰が犯人にしろ、死体のあった場所が一番の問題だ。あれが玄関ホールなど、外部から比較的侵入しやすい位置にあったなら、俺たちを含む外部犯の可能性もあるでしょう。しかし、わざわざ地下室まで運んだのは不自然です」 「あ、でもさ」聖の推理への反論が、ついぽろりと口をついて出た。「裏口からなら地下室に直接侵入できるんだよな。オレがやったみたいにさ」 「黙ってろよ有太。いいか、それにはまずこの屋敷の仕掛けに関する予備知識が必要だ。そして、外から侵入して再び出るには、最低2人の人間が必要。そうですよね笛戸博士」 「その通りだ。裏口はあのガーゴイル像を倒すことで開かれる。システム的には地下室の隠し通路と同一のものだ。像と戸口の位置が近いから、侵入する場合にはひとりでもなんとかなるだろうが、出るときはそうもいかん。ましてや、死体などの重いものを背負っていては尚更だ。ロックを外した状態を保つには、燭台のスイッチ同様、像に2〜3キロの力を掛け続けねばならん。一番確実なのは、誰かがひとり、外で像を押さえ、ドアを開け放しておくことだ」 「あそこには鍵穴がありました。つまり鍵でも開くんでしょう?」 「内側からのみだがな。鍵でロックを外した場合、自動ドアの動作が止まるため、そのままドアを開け放しておくことも可能だ。しかし、生憎とあの鍵は1年前から紛失しておるのだ。スペアもない」 「ああ、あの鍵ならあたしが持っていますよ」口を挟んだのは枝菜夫人だ。「てんたくるがお家の中に隠していたんです。見付けてからはあたしが管理してるわ」 「なに? 何故私ににそれを報告せん」 「別に言う必要はないでしょう。あんな鍵、どうせ使わないんですもの」 「やれやれ……聞いての通りだ学生諸君。この家の者は秘密主義でな。家族といえども信用がならん。そういった意味では、妻や息子が犯人だったとしても私は全く驚かんだろう。どちらにしろ、なんの証拠もないことだがな」 「それで、結局あなたはなにが言いたいのですか。結論を聞かせてください」 「結論は、君たちがあの首無し死体と関係があるのかどうか判断が付かなかった、というものだ。君たちがあの厄介なものを運び込んだと証明されさえしていれば、私は躊躇なく君たちを処分することができた。なにせ、我々はなんの罪もない、善良な一般市民なのだ。我々の平穏な生活を脅かす者には然るべき制裁が与えられねばならんからな」 「い、言うに事欠いて、善良だって?」 「善良だよ。少なくとも住居不法侵入という歴とした罪状のある君たちよりはな。しかし、現在の時点で君たちとあの死体との因果関係は不明だ。かといって君たちをこのまま逃がせば、大人しく黙っていてくれるとは思えない。君たちの行動目的である、その陽子という人間が私の屋敷の地下で眠っているかも知れんとなればな。おそらく警察を呼ぶなり訴えるなり、我々にとって不都合な行動を取るだろう」 老人は指を立てる。 「そこで出た結論はひとつだ。君たちをこの屋敷から出すわけにはいかない。ここにはあの地下室の他に、頑丈な地下牢があってな、そこでずっと生活してもらうことになる。悪いがこれが私の最大限の譲歩だ。分かってくれ」 「わかるわけねえだろう、畜生!」 駄目だ……やっぱりこいつら、異常者だ。 「何故そんなに警察の介入を嫌うのです」聖の表情にも焦りが見える。「やはり後ろ暗いことがあるんですか」 「ノーコメントだ。とにかく、警察の介入だけはさせるわけにはいかん」 「やっぱりこいつらが陽子を殺したんだよ! それで、オレたちも……」 「有太! ……ではこうすれば如何です。俺たちがあの遺体を引き取りますよ。車に積んで、どこか遠くへ――例えば、隣の山の中へでも――運び、そこに遺棄して、それから警察を呼ぶ。これならあなたたちに疑いは掛からない」 老人は首を振る。「その代わりに犯人も見付からん。なにせ本当の殺害現場はここの地下で、首を切った凶器は私の斧なのだからな。君たちもそれでは不満だろう。仮に運良く真犯人が判明しても、そいつが洗いざらい白状すれば私たちのことはあっさり警察に知れる。それでは困る」 「……成る程」 さしもの聖も、老人の強弁に圧されている。 「理解したかね。なに、地下牢はそれなりに広いし、食事には不自由させんよ。可能な限りの要求は聞き、娯楽も十分に与えよう。それとも――」 「ひ、聖」 「――地下室の女性と同じ結末を望むかね?」 ぞっとするような表情で嗤う老人。 「わかりました」 無言の末、聖が頷く。お、おい、まさか―― 「ただし、その前にひとつだけ条件があります」 「聞こうじゃないか」 「さっきあなたは最大限の譲歩だと言った。しかし、それは違うんじゃないでしょうか。あなた方が譲歩すべきラインはそこじゃない。いいですか。あなたが先程から述べていたのは、ご自分のちんけな頭脳では俺たちを犯人と立証することができなかった、それだけです。それは単にあなた方のターンが終わったと示されただけに過ぎない。だったら今度はこっちのターンだ。そうでしょう?」 「要点ははっきり言いたまえ」 「次は俺たちが誰が犯人かを検討する番だと言ってるんです。もしあなた方の誰か、あるいは全員が犯人だと証明されれば、当然俺たちは無罪です。そうなったらどうします? 善良な一般市民でもなくなったあなた方が、なんの罪もない俺たちを監禁したり、処分したりしますか」 「ふむ。そうきたか」 彼らはあくまで自分たちの正当性を主張してきた。聖はそこを突いたことになる。 でも、聖は甘い。こんな犯罪者みたいな連中、懐柔しようとしたって…… 「そうさな……」 ――あれ、意外に効果ありか? 「我々3人が共犯だということは全くもって有り得んが、私も学者だ。仮に私自身が犯人であると論理的に証明されれば、諦めてお縄に付くにやぶさかではない。また妻や息子が犯人の場合、庇い立てする気も毛頭ない。私の生活を脅かす者は例え肉親だろうと許すことはできんからな」 「そうまでいかなくとも、たとえばこの場にいる全員が犯人ではないと証明された場合、俺はこれ以上犯人捜しをしないと約束しますよ。命あっての物種です。警察に黙っているよう、衛も必ず説得します」 ここぞとばかりに捲し立てる聖。 「もし俺たちが調べてもなにも進展がなかった場合には、監禁するなりなんなり好きにすればいい。それが最大限の譲歩っていうものじゃないですか?」 〜マモル 2006/04/02 00:28〜 「つまり、僕たちで陽子を殺した犯人を見つけ出すってことなのか」一通り話を聞いて、僕はまだぼんやりとする頭を振りつつそう聞き返した。 「ああ。辛いだろうが、どっちみちやらなきゃ俺たちはお仕舞いだ」 答える聖は、モニタに向かってキーボードをカチャカチャいわせている。 ここは、屋敷の地下にある笛戸博士の研究室。さっきまで閉じ込められていた地下室の隣の部屋だ。博士の麻酔針で気を失った僕は、ずっとこの部屋に寝かされていたらしい。その間に残りのメンバーが顔を突き合わせ、差し当たっての身の振り方が決定した。それが、僕たち自身の力で事件の謎を解く、ということのようだ。 「畜生、駄目だな」 舌打ちをし、髪を掻きむしる聖。 「どうやらお目当ては外れたようだな」部屋にある揺り椅子を揺らしながら笛戸博士がにやつく。「どうせネットに接続してこっそり外部に助けを求めようとしたのだろう? 残念ながらこのパソコンはスタンドアローンだよ」 「見抜かれてちゃ仕方がないですね。でも、それだけじゃない。ロック解除日時の改竄の痕跡も見破れなかったし、扉のパスワードもさっぱりです」 今日――いや、もう昨日か――4月1日中ずっと、笛戸博士はこの研究室にいたらしい。ここへ辿り着くための正規のルート――地下へと下りる階段――は、ホール左側の扉の先にある。 この屋敷はホールを中心に3つのブロックに分かれている。ホール正面のキッチン、右手の食堂、そして左手の研究室ブロックだ。ちなみに聖たちが先程までいた応接間は、この研究室ブロックの1階にあったそうだ。 とにかく、この研究室が地下室と隣り合わせである以上、博士はずっと事件のあった隣の部屋にいたことになる。まさに最重要容疑者だ。 そのことを応接間で聖が指摘すると、博士は不敵な笑みで首を振った。 「怪しくあるものか。研究室と地下室を繋ぐあのドアは電子ロック式でな、開けるためには研究室のパソコンを操作せねばならん。さっきは物音がするのでロックを外したが、それは実に370日ぶりのことだ。当然パソコンに記録が残っておる。それを見れば、私がそれ以前に地下室へのドアを開けなかったことが証明されよう」 「パソコンのログなんて、改竄可能でしょう。なんの証明にもなりませんよ」 「改竄ね。そんなことがそう簡単にできるのかどうか、試してみるかね?」 ――と、その挑発に乗った聖が、僕の無事を確認がてらここまで調べに来た、という経緯らしい。 「こことあの地下室を繋ぐドアは完全な電子ロック式。電源はドア自体に組み込まれたバッテリーに補充されているため、仮に強引に電源をショートさせたとしてもロックは外れない。それは間違いないんですね」 「そういうことだな。ドアに入力装置は付いていないため、ロックを外せるのはその端末をドアに繋いだときのみ。ドアの開閉に関係なく、接続した時点でパソコンにログが残る。無論、ドアを開けたら開けたでそのデータも残ることになるがね」 「それよりちょっと気になったんですけれど」僕は口を挟む。「物音を聞いてドアを開けた、と仰いましたね。仮に地下室の音が研究室に筒抜けなら、どうして犯行時に気付かなかったんです?」 「そこは誤魔化したいところだが正直に答えよう。私もこう見えていい年だ。頭はこの通りしっかりしているのだが、少々耳が遠くなっていてな。特に研究に没頭しているときなど、周囲の雑音など全く聞こえんよ。この家の壁はどれも防音性の高い造りだしな。ただ、あの斧が振り下ろされる音だけはけっこう響くのでな。たまたま私の意識が幾分か周囲に割り振られている状態で何度も斧が振り下ろされれば、流石に認識できる可能性が高まる」 「斧が倒れた音、ですか」聖が納得できないような顔をする。「それにしては、俺たちの様子を見に来るのにけっこう時間がかかりましたね」 「それはシステムの問題だ。パソコンとドアを繋ぎ、16桁のキーロックを外すべく、様々な関連データから記憶を呼び覚まし開扉完了するまでに16分程かかってしまっただけだ」 それって、要するにコードを忘れていた、ということなんじゃないだろうか。 「ちなみに、そのコードはあなたしかご存じないんですか」 「私が個人的に設定したものだからな。解析は不可能ではないが難しいだろう」 「すると、あなた以外の人間が研究室側からこっそり地下室に侵入することは不可能だったってことですね」 「それは保証しよう。研究室には誰も来なかった。いくら私でも、近くに人が来れば集中力が落ちる」 すると、仮に博士が犯人でない場合、地下室への侵入ルートは裏口とホールの壁の隠し通路の二択になるわけだ。 「よし、大体わかった」聖が立ち上がる。「時間もないし、俺は次に当たってみる。衛はもう少し博士に付き合って、情報を聞き出してくれ」 「ああ……」 「心配ない。この人はけっこう律儀だよ。じゃあ、頼んだぞ」 そう言って、聖は研究室を出て行った。 有太も個人的に情報を仕入れているらしい。2人が頑張っている以上、僕も気合いを入れて目の前の老人と向き合わねばならないだろう。 「そう睨み付けるな。さっきの攻撃はあくまで正当防衛だが、こういう状況になった以上は謝罪しよう。だが、私の今の気分だって君たちとそれほど変わらないということは理解して欲しいな。その陽子という女の子には気の毒なことだが、突然平穏な生活が脅かされたということでは損失は等価だろう」 この老人からは、全く罪の意識など感じられなかった。ひょっとすると想像以上に心のなにかが壊れているのかもしれない。 「あの」恐る恐る僕は尋ねる。「そもそも、なんであんな隠し扉みたいなものを作ったんです?」 「ふむ。あれは元々一種のパニックルーム。つまり緊急避難用のシェルターだったが、実に欠陥品でな。本来なら完全に土に埋められるべき部屋が、この屋敷が斜面に建てられているせいで半分以上露出してしまっている。あれでは本来の機能は果たせん。無用の長物だ。そんなわけで、今は私の発明品置き場になっている」 「発明品? あの甲冑もってことですか」 「薪割り武者だな。日本の鎧が手に入らなかったので屋敷に元々あった甲冑で代用しているが」 なんだか頭が痛くなってきた。そんなものを放置したせいで、陽子は…… いや、まだ決まったわけじゃない。僕は自分に言い聞かせる。今は、もっと情報を集めよう。 「地下室には、もう他の仕掛けはないんですか?」 「ああ。まだ、な。徐々に埋めていくのが楽しかったんだが、こういうことになってしまってはな」 結局、甲冑以外は全てドアの仕掛けだ。ホールから下ってくる隠し通路と扉、裏口と繋がる一方通行のドア、そして目の前にある電子ロックのドア。 「この電子ロックは、地下室側からはどうやっても開けられないってことですよね」 「そうだ。だが逆にロックさえ開けた状態にしておけば、普通のドアと同じように行き来できる。再びロックするには、やはり端末からのパスワード入力が必要だ」淀みなく答える博士。嘘を吐いているようには見えないし、実際にドアを調べれば真偽はすぐに判明する。信用してもいいだろう。 問題は、ドアの開閉の履歴が操作されている場合で――やはりこの老人が最も犯人に近い位置にいることは確かだ。 絶対に尻尾を掴んでやる。僕は拳を固く握りしめた―― 〜ヒジリ 2006/04/02 00:40〜 笛戸邸の2階には、北側中央の吹き抜けを囲むように4つの寝室がある。東から時計回りに枝菜夫人の部屋、笛戸博士の部屋、空室を挟んで西の端にあるのが、現在いる笛戸英人の部屋だ。回廊に面した扉から中に入るとそこはヴェスティブルというか、狭い繋ぎの空間になっており、右手にある扉が西洋式のバスルーム、正面の扉が寝室へと繋がっている。 「2階の全ての部屋が同じ造りなんですか?」英人に勧められて藤製の椅子に腰を下ろした俺が尋ねると、調理スペースの英人は頷いた。 「そうだよ。見ての通り、流しや簡易のガス台に冷蔵庫もある。だから一度部屋に引き籠もったら、1日2日廊下に出なくても平気だ」 「おまけに防音性が高い、ということですか」 「そう。だからホールでの君たちの騒ぎにもなかなか気付かなかった。流石に隣室や2階の廊下をうろちょろされてればすぐに気付いたかもしれないけどね」 「成る程」 俺は頷いて、彼の部屋を改めて見回す。あの笛戸邸の外観や今までに見た内装と比較すれば、ここは至って普通、あまりにも平凡な部屋だった。 ライトグリーンの壁紙が貼られた壁にフローリングの床、セミダブルのベッド、本棚、デスクの上にはライトとノートパソコン。奥まったスペースに流し台などの調理器具が集まり、均等な間隔でスポットの埋め込まれた天井から吊り下がっているのは鳥の剥製や干し首などではなく、模型飛行機だった。唯一、窓際のチェストに乗っている、布の被さった四角い箱が気になるが…… 紅茶を淹れた英人が戻ってきて、デスクの椅子に座った。 「おれと母さんがバスで麓の街まで食料品の買い出しに出掛けたのが昼過ぎで、戻ったのが4時半頃。それからここにひとりでずっといた。地下室に近付くどころか、一歩も外へは出ていない。もちろん証明はできないけれどね」 「ちなみに、買い出しから戻った時点でホールの床に血痕は?」 「なかったよ。あったら気付いてる」 「帰ってきたとき、他におかしな様子はありませんでしたか?」 「特に気付かなかったな。元々ボロボロの屋敷だし、あまり手入れとかには気を使ってない。てんたくるがいるから、ホールの床ぐらいは母さんが掃除するけどね。あいつ、行儀悪くてさ。嫌いなんだ、猫は」 言いながら彼は窓際に歩いていって、例の箱に掛かっている布を取り去る。箱はガラスの水槽だった。中では毛むくじゃらの小動物が蠢いている。 「ハムスターさ。可愛いだろ」 「ええ、まあ」正直どっちもどっちだと思うが、わざわざ口に出して彼の怒りを買う必要はないだろう。 「躾れば、けっこう言うこと聞くんだぜ、こいつら」 「そうなんですか」 俺は窓際に近付いた。もちろんハムスターを鑑賞するためではない。窓にはガラスが填っており、その外には鉄格子が見える。地下室にあったものとは違い、開きそうだ。 「窓、開けても?」 「いいよ」 俺はラッチを外し、鉄格子の隙間から下を見てみた。闇の中に、最初に歩いた脇道が見える。鉄格子の間隔は狭く、腕をくぐらせるのがやっとだった。足場もないし、人間がここから外に出ることは不可能だろう。 「この鉄格子は、全ての部屋の窓に?」 「ああ。泥棒避けにね。今となっちゃ、頼まれたって盗みになんか来やしないんだけれど」 「この屋敷の玄関以外の裏口というか、外部に出られる扉は、あの地下へ通じるドアだけですか」 「その通り。変わった造りだろう?」 「変わったというか、まるで……」まるで、牢獄のようだ。そう思った。 俺の顔色を察したのか、英人は自嘲的な笑みを見せる。 「そうだな。本当は屋上やバルコニーのひとつでもあるといいんだけれど。この屋敷を建てた建築家――おれは知らないんだけれど――は、よっぽど閉鎖的な人間だったんだろうな」 ハムスターを撫でながら呟く英人は、どことなく寂しげだった―― 〜ユウタ 2006/04/02 00:44〜 「あたしの興味はね、このてんたくるちゃんたちのことだけなの」枝菜夫人はそう言って猫に頬擦りをした。 「あの人はなんだか分からない研究に打ち込みっぱなしで地下の研究室から出て来やしない。息子の英人は英人で、部屋に籠もってずっとパピコンだかなんだかを弄ってるわ。以前は寂しかったのよ。でもね、この子たちが来てくれたお陰であたしは癒された。心が満たされたのよ。ああ、なんて可愛い子たちなのかしら。あたしはこの子たちのためなら、なんだってできる」 さっきからずっと、この婆さんは猫の話しかしていない。それも一方的に。オレはなにも喋っちゃいない。 「もうここ数日、自分の部屋には帰っていないわ。この部屋の奥に使っていない食堂があるの。ホールの西側の扉からも通じているけれどね、あそこは鍵を掛けているから入ってこられない。この屋敷の鍵の殆どはあたしが管理しているのよ。だって誰かが勝手にドアを開けたら、この子たちが出て行ってしまうでしょう?」 ここは笛戸邸のキッチン。オレたちがこの屋敷に侵入したとき、最初に入ることができたあの部屋だ。ここで出された瓶のコーラをちびちびやりながら、オレは聖に言われた通り、この婆さんが怪しげな行動を取らないよう監視しつつ、情報収集をしている……筈だ。 「とにかくね、ここ数日は大変だった。家の者がどこでどうしていたとか、そんなことよりもこの子たちのことがより重要だったのよ」 とにかくこのまま婆さんの猫トークを聞いていてはまずい。あとできっと聖に怒られる。そう思ったオレは恐る恐る口を挟んだ。 「あの……さっきから『この子たち』って複数形で呼んでいますが」 「そうよ。あら、見たいなら見たいって最初に言えばいいのに。さあこっちよ」婆さんはなにかを勝手に解釈したらしく、椅子から立ち上がるとキッチンの奥の扉へ向かう。 戸口を潜り、振り返ると猫を抱いていない方の手でおいでおいでをした。なんだか既にこの婆さん自身が猫っぽい。 正直嫌な予感がした。ついていきたくなかったが、婆さんから目を離すわけにもいかない。仕方なくオレは暗闇の中へと消える彼女のあとを追う。 「な、なんか異様に暗いんですけど、明かりかなんか――」 オレは言葉を飲み込む。扉の先、先程夫人が食堂と称した広間の暗がりの中で、複数の目がオレを睨み付けていたのだ。 「ひ、ひいいっ!」 「怖がらなくてもいいわ。みんな可愛い子たちよ。あの親猫がぱーぷる。てんたくるのお嫁さん。周りにいるのは皆彼女の子供たち。昨日生まれたばかりなの」 猫だった。その部屋にいるのは無数の猫、猫、猫。 「難産だったわ。ぱーぷるがここと決めたら梃子でも動かない質で、仕方なくあたしはずっとこの部屋で寝泊まりよ。だから夫や息子がなにをしていたかなんて知りようもないでしょ。あたしにすれば、あなたたちがいくらこの屋敷の中を引っかき回そうが一向に構わない。関係ないのよ。その首なし死体とやらを担いで、さっさと出て行って欲しいものだわ」 この婆さん――やばい。オレの勘はそう告げていた。キッチンの明かりが届く位置までじりじりと後退する。 「え、え、その、ええと、つまりあなたは、今日はずっとここにいたと?」 「今日も、よ。ああ、でも昼間、英人の食料品買い出しにだけ付き合ったわ。本当はずっとこの子たちに付いていたかったのよ。麓までどんなに急いでも1時間は掛かるでしょ? 往復2時間以上もあの子たちを放っとけないじゃない。でも一番の山は昨日越えたし、赤ちゃん用のペットフードはどうしても自分で選びたかったの。英人にお使いを頼んだら、なにを買ってくるかわかったものじゃありませんからね。この間なんか、ネズミの餌なんか買ってきたのよ。嫌がらせのつもりかしら」 「は、はあ」額に冷や汗が湧いてきた。「あの、ええと、買い出しに出掛けた時間なんかはわかりますでしょうか」 「出掛けたのがお昼の1時頃だったかしら。戻ってきたのは4時過ぎ。あの子たちが心配でずっと時計を見ていたから間違いないわ」 「で、戻ってからはおふたりともそれぞれの部屋に」 「だから、あたしは食堂よ。英人は自分の寝室」 「今日の9時頃、オレたちが忍び込んできていたのにも気付きませんでしたか」 「9時にはもう寝てたわ。そこにある内線電話のコールであの人に起こされるまではね」 「つまり、今夜はあなたはずっと1階食堂にいて、エイトさんはずっと2階の自室に、ご主人は地下の研究室にそれぞれいたと。で、それはお互いに証明できない」 「てんたくるちゃんたちが喋れれば証明してくれたでしょうにねえ」 そう猫撫で声を出しながら、彼女は猫の大群の中に身を埋めていく。 「あの……そこがその、てんたくるちゃんたちの巣なんですか? 裏口のドアの鍵を見付けたっていう」 「――巣? お家でしょ」 「は、はい、ス――いえ、いえあの、家」 「そうよ。この食堂全体がね。でも謙虚な子たちだから、いつもこの辺りに身を寄せているの」と老婆は自分のいる猫だまりを指さす。 「あの鍵は、今もお持ちで?」 「もちろんよ。鍵の頭に猫目石みたいなガラス玉が付いていてね、それを猫ちゃんたちがこぞって口に入れたがって危ないから、あたしが保管しているの」 「今、それを見せてもらっても?」 「嫌よ。みんなが飛び付いてくるんですもの」 もう十分に飛び付いている。そう思ったが口には出さない。既にこの婆さんは猫と融合を始めているのかもしれない。 とりあえず、聞くべき事は聞いた。この婆さんが異常だということも分かった。しかし――だからといって、陽子を殺したのが彼女なのかどうか、オレには分からない。 もうすぐ時間だ。1時になったら、オレたちは今回の事件の結論を出さなければならない。なのに、オレにはなんのアイデアも浮かんでいない。 聖は上手く情報を集められているのだろうか。衛の容態はどうなのだろう。 ああ―― どうしてオレはこんな屋敷になんか来てしまったんだろう。こんなことなら、なにもかも無視して大人しく家で寝ていれば良かった。 なにがいけなかったんだ。どこが選択ミスだったんだ。 ぶりかえしてきた風邪の悪寒と眩暈に、オレの視界はぐるぐると回転しはじめた―― (問題編終了)
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