薄暗い通路の先で、男は屈んで作業をしていた。
事件はとんだ展開になったが、これでひとまずはなんとかなるだろう。急場さえ凌いでしまえば、あとはどうとでも誤魔化せる。
そのとき、背後で自分を呼ぶ声がした。今行く、と返事をし、男は立ち上がる。
細工は流々。あとはテクニックの問題だ。
目の前のドアを頼んだとばかりに軽く叩き、男は引き返す。
〜マモル 2006/04/02 01:30〜
自分の靴音が大きく聞こえるほど、周囲は静まり返っている。
笛戸邸の地下室。生々しい首の切断面を晒した女性――陽子――の死体が転がったままの殺人現場に、僕たち3人と笛戸一家3人、計6人が顔を合わせていた。
いよいよこれから始まるのだ。僕たちの人生を賭けた、事件の解明が。
「結論から言って、犯人はこの部屋の中にいます」
代表して推理を話し出したのは、もちろん聖だ。今回の事態は、今までに僕らが遭遇してきたトラブルの中でも最も厄介なものだが、聖ならなんとか切り抜けてくれるのではないかという淡い期待があった。少なくとも僕や有太よりは、彼の頭は切れる。
「ほう、何故そんなことが言えるのかね」
しばしの無言のあと、真っ先に反応したのは笛戸博士だった。
「外部犯の所行にしては、この地下室が堅牢すぎるんです――『密室』として」
推理小説さながらのキーワードを出し、聖は背後の壁をこんこんと叩く。
「いいですか、この地下室は入るためにも、出るためにも非常なまでの労力が必要です。ここを死体遺棄現場にする計画を立てる場合、単純に考えて犯人が3人以上の共犯関係でもないと割に合わない」
3人――偶然なのか必然なのか、僕たちも彼らも3人同士だが……
「それなのに、そこまでしてこの地下室に遺体を運ぶ必然性というものが皆無だと思いませんか。犯人の目的が怨恨、つまりこの屋敷の住人に罪を着せて苦しめようというものだとしても、他にいくらでもやりようがある筈です。つまり」聖は語気を強める。「状況から見て、外部犯の可能性は著しく低い。そして、内部犯であるのなら、やはり複数犯であるとは考えにくいのです。何故なら、犯人はこの地下室に閉じこめられていたと思われるからです」
「閉じ込められていた? どうしてそんなことが言えるのかしら」
枝菜夫人が疑問を呈する。今は猫を抱いていないため、手持ち無沙汰な様子だ。てんたくるはこの部屋に漂う血生臭い臭気に騒ぐといけないので、食堂に置いてきたらしい。
「ポイントは部屋の電灯です。俺たちが入ったとき、この部屋の電灯は消えていた。これって、よく考えるとおかしいでしょう? 犯人が何者にせよ、暗闇の中でこの犯行を為せたとは思えない。よって、犯人が部屋を出る前に電気を消したと考えられます。では、何故犯人はわざわざ電気を消したのか?」
「几帳面な性格だった、という答えは望んでいないわけだな」笛戸博士が皮肉めいた口調で言う。「合理的な理由があったわけだ」
「そう。部屋から安全に脱出するため、という合理的な理由がね」
「安全、とはどういう意味かね」
「目撃されずに、ということですよ。いいですか。犯人は、俺たちがこの屋敷に進入した時点では、まだこの地下室にいたのです。もし部屋の出入りが自由であるなら、とっくに犯行を終えたのに、さっさと脱出しない理由はない。閉じこめられていたとしか考えられません」
腕を広げ、熱弁を振るう聖。
「犯人は部屋を出られず困っていた。そこへ俺たちが忍び込んだことで、思わぬ好機が訪れます。壁の隠し扉が開き、続いて上から誰かが降りてくる気配を察した犯人は、咄嗟に部屋の電気を消して、隠し扉の脇に隠れる。やがて俺と衛が地下室に進入した直後、入れ違いにこっそり部屋を抜け出したんです」
「成る程――だから『単独犯』ということか。共犯者がいればそもそも閉じ込められるわけはないからな」
さすが聖。『部屋の電灯が消えていた』なんていう些細な事実から、良くそこまで推理を広げられるものだ。
「正確には2人の共犯という可能性が残りますが、これはすぐに否定できるので後回しにしましょう。ともかく、無事に地下室を脱出できた犯人ですが、次に問題になるのが、階段で欄干を押している有太の存在です。彼は当然、隠し扉の出入口を凝視している。このまま出れば、彼に姿を目撃されてしまう。ぼやぼやしていると、さっき下りていった2人が戻ってくる。犯人は焦ります。ところが、ここでまたもや犯人にとってラッキーなことが起こります。英人さん、あなたが2階から有太に声を掛けたんです」
「あ」皆が呆気に取られる。
「一瞬、有太の視線が隠し通路から逸れた。その瞬間、犯人は戸口を抜け、階段の裏にでも隠れたんです。そこは2階の英人さんからは死角で、誰にも気付かれない。犯人がそこで有太と英人さんの様子を窺っていると、追いかけっこが始まる。ただ英人さんは深追いせず、すぐに屋敷へ戻ったようですから、同じように外に逃げる時間的余裕はなかったでしょう。いや、その必要もない。犯人はただ、自分の部屋へ帰れば良かったんですから」
「内部犯なわけだもんな」有太が何度も頷く。
「さて、以上の状況から、犯人は元々2階にいた英人さんでは有り得ない。そして、隣の研究室から地下室へ繋がるドアを管理する笛戸博士、あなたでもありません。もちろんこの時点で先程上げた『2人共犯』の線も消えます。3人しかいない住人のうち、英人さんが省かれる以上、共犯関係には必ず笛戸博士が含まれますから、閉じ込められようがない。お分かりですね。よって犯人たり得るのはひとり」
全員の視線がそのひとり――枝菜夫人に集まる。
「ちょっと……なによ。あたしが犯人だってこと? 馬鹿をお言いじゃないよ。あたしがなんで、こんな知りもしない女を殺さなきゃいけないのさ」
「知りもしなかったかどうかはまだ分かりませんよ。首が無いわけですし――」
「そ、そうよ。あたしが犯人ならその首はどこへやったのよ」
「猫だ!」有太が叫んだ。「猫に食わせたんだ!」
「話にならないね! 大体あたしはこんな場所に閉じ込められなんかしないんだよ。裏口の鍵を持っているんだからね」と、懐を探る枝菜夫人。
確かに、彼女が裏口を自由に出入りできるなら、聖の推理は成立しない。しかし、有太は結局彼女に鍵の実物を見せてもらってはいなかった。もしかしたら、まったくのハッタリということも……
だが、彼女はやがて一本の鍵を取り出した。有太の話通り、頭に緑色のガラス玉が装飾された古風な鍵――
「ふむ。確かに、その鍵だな」笛戸博士が確認する。間違いないのか。
「あなたが鍵を手にされていたということに関しては疑いはありませんでした。なにせ鍵の詳しい外見的特徴を言い当てている。今のように笛戸博士に確認しさえすれば、嘘なんかすぐばれますからね」
聖は驚きもせず宣う。
「ただ……今は用心して持っていても、閉じ込められた当時はどうでしょう。いくら猫がその鍵を狙っているとはいえ、引き出しにでも仕舞っておけばいいだけです。普段から使いもしない鍵を、肌身離さず持っていることの方がよっぽど不自然じゃないですか?」
成る程……つまり、応接間で地下室のドアの話になった際に、彼女が自ら鍵の所在を仄めかしたのも、常に鍵を持っていると思わせたかったから、ということか。
「それに、もし仮にその裏口の鍵を当時も持っていたとして、それ――本当に使えるんでしょうか」夫人の手に掲げられた鍵を指さし、聖が疑問を投げかける。「古いドアの鍵が使えなくなっているなんて、良くあることですよ。一度試してみては?」
彼は既に場のペースを支配していた。裏口へと続くドアを開け、一同を招き入れる。
皆の無言の圧力に従って、枝菜夫人は苦虫を噛み潰したような顔で突き当たりのドアの前に立ち、手に持つ鍵を鍵穴に差し込んだ。
「左に回せば自動ドアの回線が絶たれ、自然にロックが外れてドアがスライドできるようになる筈だ」
笛戸博士の説明通り、彼女は鍵を左に回そうとする。しかし、そのままの状態で動かなくなった。手先が小刻みに震えている。
「開きませんか?」
「壊れたのよ!」聖の確信に満ちた質問に、枝菜夫人が振り向いて叫ぶ。「たった今! それ以外考えられないじゃない!」
「――じゃあ、犯行当時はまだ使えたと?」
「そうよ。そうに決まってるでしょ! ……なによ!」
一同に広がっていく、やるせない雰囲気に枝菜夫人が狼狽える。
「使ってない! あたしは鍵なんて使ってないのよ!」
――それは事実上の敗北宣言だった。
〜ヒジリ 2006/04/02 01:47〜
「……やれやれ。まさかこんな結果になろうとはな」笛戸博士が溜め息を漏らす。「長年連れ添った妻が殺人犯とは――まったくもって遣り切れん」
どうやら言いくるめに成功したようだ。俺は意気消沈した老夫婦に向かって、最後の口上を述べる。
「あとはご家族の問題です。前言通り、俺たちはこれ以上この事件に関与しない。ここから無事に帰してもらえればそれで――」
「ちょっと待った!」
突然、何者かが口を挟んだ。驚いて声の方を向くと、それは先程からずっと黙っていた英人だった。
「なんですか」
「いや、なかなか面白い推理だったけれど、果たして本当にそれが真相なんだろうかと思ってね」
「――なにか、おかしな点でも?」嫌な予感がした。
「そうだな……」英人は通路を進み、枝菜夫人に近寄る。「ちょっとどいてくれるかい、母さん」
彼はドアから鍵を抜くと、屈み込んで鍵穴を覗く。
「なにをしているんです」
「成る程」小さく頷き、今度は穴の臭いを嗅ぎ出す。――気付いたか。「煙草臭い。鍵穴に詰め物をしたな。おそらく煙草の葉だ」
衛を始めとする一同が唖然とするのが気配で分かった。
「いくら自分の推理を通したかったからって、こういうやり口は戴けないな」
英人は立ち上がり、こちらに振り向いた。完全にばれている。
「――俺がそんな小細工を?」
「証拠はないけれどね。おれたちは煙草は吸わない。ペットが嫌がるからな。親父は葉巻をやるけれど、これは臭いが違う。ピックで掻き出して分析すれば、銘柄まではっきりするだろうよ」
やれやれ、作戦失敗だ。この男、今まで猫被りやがって。俺は心の中で悪態を吐き、考える。このままじゃ俺たち3人の立場が危ない。
「どっちにしろ、いつから鍵が使えなくなっていたかが分からなければ意味がないことです。そうでしょう英人さん?」
「確かに。けれど、残念ながら母さんが犯人というのは有り得ない。君はおれが2階から声を掛けた隙に、隠し通路に隠れていた母さんが階段裏に隠れたって言ったけれど、あの男はおれが声を掛けたその瞬間に、ビビって欄干から手を離したんだ。いや、むしろ身体ごと飛び退いてた。とてもじゃないけれど、通路から脱出するだけの時間はなかったよ。大体母さんももういい歳だし、たとえ時間があってもそんなに俊敏な動作はできなかったと思うね」
「え、お、オレ、そんなビビってた?」とビビリながら言う有太。
「……別に、必ずしもそのときに逃げられなくってもいいんじゃないですかね。一旦は通路に閉じ込められたとしても、あとからまた開いたわけですし」
「おいおい、忘れちゃ困るな。欄干を押せば通路の両側の扉が開くけれど、燭台のスイッチじゃ片方ずつなんだ。君たちが地下室から脱出するときに見付かってる筈だろう」
この程度の引っ掛けは通用しない、か。「それは……」
「努力は買うけれど、君の推理はちょっと的外れだな」英人は反論できない俺を一瞥し、両手をポケットに入れて悠然と通路を戻り始める。「怒ったかい?」
「いえ――しかし俺にはさっきの結論以外考えられないんですがね」
「そうか、じゃあどうだろう。今度はおれの推理を聞いてみないか。ここは息が詰まるから、応接間でお茶でも飲みながらさ」
そう言って、英人はにやりと嫌な笑みを浮かべた。
〜ユウタ 2006/04/02 02:07〜
皆が研究室経由で1階に戻り、応接間のソファに身を落ち着けた。枝菜婆さんは差し当たっての疑いを晴らされた上にてんたくるも抱え、ご満悦の様子だ。
「まず考えなくてはならないのは、あの遺体が果たして本当に陽子さんなのか、ということだ」
場の主導権は英人に移っている。彼は自らキッチンで淹れた全員分の紅茶を運んでくると、推理を話し始めた。
「だって犯人を特定したけりゃ、被害者を特定するのが一番近道だろう? 動機だって判明するかもしれないし。君たちの弁によれば、陽子さんは少なくとも携帯に着信のあった19時過ぎまでは生きていたことになる。つまりあの遺体が陽子さんなら、必然的に犯行時刻は19時以降、親父の検死を信用するなら、まさに19時近辺ということになる。となると、少なくとも君たち侵入者3人にはアリバイができる。その時点ではまだ麓の街にいたんだからね。逆にあの遺体が陽子さんでなければ、君たちは灰色のままだ」
「でも、科学捜査なしで首のない遺体の身元特定なんて、そんなことが可能なんですか」
「もちろん。要点はそれ自体、つまり何故遺体の首が消えていたのか、ということだ」
「そんなもの、考えるだけ無駄でしょう」先程から不機嫌そうな口調の聖。もちろん自分の推理を否定されたからだろう。しかし、謎解き直前にひとりで地下室を調べに行ったとき、彼が鍵穴にあんな細工をしていたとは驚きだ。相変わらず用意周到だが、ちょっとやりすぎだった気もする。「――犯人が首を欲した理由なんて、わかりっこない。どんな理由だろうと、少なくとも常識では測れない」
「そうかな。さっき君が説明した通り、あの地下室はただ出るだけで一苦労だ。わざわざ首を担いで行く以上、そこにあるのは生半可な、抽象的な動機じゃない筈だろう」
「遺体の身元を隠したかった……とか」衛が意見を出す。「実際に僕たちが悩んでいるような、この状況を作り出したかったんじゃ」
「確かにある程度の効果はあるだろうけれど、さすがに首だけじゃ中途半端だ。せめて指紋を隠すために両腕も持ち去らないと」
「首に犯人の正体を指し示す痕跡が残ってしまっていたらどうかな」今度はオレが自前の推理を語った。「こう、手形とか、噛み付かれたとか、髪に犯人の血が付いたとかさ」
「髪に血が付いていたならそこだけ切り取れば済む話だし、手形や傷痕なんかもちょっと損傷させておけば十分誤魔化せる。わざわざ首を切って持っていく程のことじゃないし、逆にその方がリスクが高い」
「じゃあ、その首を切断した動機ってはいったいなんなんです。あなたは合理的な説明ができるんですか?」
苛ついた声で詰問する聖に、英人は「そりゃ、できないよ」とあっさり首を振る。
「はあ?」
「だから、できないといってるんだ。犯人が遺体の首を切断したことに合理的な理由や動機はない。そう考えれば色々と辻褄が合う」
「あの、もう少し分かりやすく説明してくれませんか」
オレは頭を掻いて言った。衛も賛同するように頷いている。
「偶然だったんだよ。犯人は彼女の首を切断する意図があって斧のスイッチを押したわけではなかった。たまたま遺体があの位置にあり、たまたまスイッチが押され、たまたま首が切断された。だから首を切断した動機なんてものは存在しない」
「でも、さっきあなた、明確な動機があるって」
「それは、持ち去った理由だよ。犯人は、意図せず遺体の首を切断した。しかし、そのあとで首を持ち去る理由ができた。そういうことなんじゃないかな」
「勿体ぶるなよ」唐突に聖が口調を変える。「要するに、犯人は外部犯で、首は地下室を脱出するために使った。そう言いたいんだろ?」
「その通り。犯人は意図せず首を切断した。つまり斧の仕掛けを知らない人間だったんだ。おそらく裏口から侵入し、犯行後に地下室に閉じ込められ、脱出のために室内を詳しく調べようとして、スイッチに触れたんだろう」
聖があとを続ける。
「それから犯人は燭台のスイッチを発見する。でも、燭台から手を離せば壁が閉まり、脱出できない。そこで、首を重しにすることを思い付いた」
「首を、重しに?」
そうか――そういうことか。
つまり、犯人は燭台に首を乗せたのだ。だから、あの燭台には血が付いていた。
「成る程。女性の首でも重さは3〜4キロはある。小さな燭台に乗せるのはバランス的に難しかろうが、ウエイトとしての機能は十分だな」爺さん――笛戸博士が補足した。
「でも、そこまでだろ。地下室からホールに出るためには、重しが2つ必要だ。まさか2つ目は自分の首を切って使ったとでも言うのかい?」
「それは、燭台に首が残っていなかったことで明らかだよ。重しにした首をわざわざそこから持ち去ったのは、それを再利用するためだ。つまり、首に長い紐を付けて、それをたぐり寄せると同時に扉をくぐったんだ。これを2回繰り返せばホールへ出られるだろう」
「だから、なんでわざわざそんなアクロバットを? 重しに使えるのは首だけじゃないだろ。死体の腕でも足でも斧で切断して重しを増やすだけじゃないか」
「ひ、聖」衛の顔から血の気が引く。
「え、あ――すまん。悪気はなかったんだ。ただあいつがあまり無茶なことを言うから」
「無茶、ね。確かに突拍子もない発想だけれど、そこにも一応説明は付くよ。まずは心理的理由。犯人は君たちの言うような異常者でも、猟奇殺人者でもないとおれは思う。首の切断はあくまでもアクシデントだったわけだし、それを利用するだけでも相当な躊躇があっただろう。背に腹は替えられず、仕方なく利用した。そんな状況で、やれ腕が必要だから切断、足が必要だからまた切断、なんてできるだろうか」
「それは――まあ」
「それから、重量とバランスの問題。あの燭台を下げるのに十分な重さを腕や足で確保するためには、結構な長さを切らなければならない。となると、今度は燭台に乗せるのが難しくなる。まあ上手く縛り付けておく方法がないでもないけれど、そこまで計算して切断を繰り返すのは相当な手間じゃないかな。かといって、女性の身体そのものを重しにしようとしても、燭台の高さまで身長が届かない。これらを総合的に考えて、犯人が運良く手に入れた頭ひとつでやりくりしようとしたというのは妥当な判断だと思うね」
そう言われると、だんだん有り得る行動だったような気がしてくる。上手く言いくるめられているだけかもしれないけれど……
「そこまではいいとしますよ」少し落ち着いたのか、聖の口調が戻る。「でも、その肝心の脱出道具がまだ不可解だ。首に紐を結びつけた? そんな都合のいいもの、どこにあったっていうんです。仮にロープのようなものを犯人が持参していたなら、首なんか使わなくたって、上手くあちこちに結びつけて脱出できる筈だし、衣服を紐代わりにしたとも思えない」
「え、そうなのか」思わず反論する。「服はいい線だろ。引き裂いて繋げば長くなるし」
「あのな有太。犯人が衣服を裂いて使うなら、まず真っ先に被害者の衣服に目を付ける筈だろ。犯人自身のものを使って、繊維などの下手な証拠を殺人現場に残すわけにはいかないし」
「そりゃそうだろうけど」
「なのに、被害者の衣服は揃ってたんだぜ。コートは着ていたし、春先にマフラーはないだろうし、ソックスを履いていたから、ストッキングもない。あと可能性があるのは、彼女が身分証を持っていなかったことから推察できる、現場に『あったかもしれない』ショルダーバッグの紐か、そこに『入っていたかもしれない』替えのストッキングかなにか。けど、それらにしては絶対に残る筈の残骸がない。紐のないバッグとか、ストッキングの包装とか、わざわざ犯人が持ち去る必要なんかないだろ?」
一気に捲し立てる聖に、オレは否応なく黙らされる。英人は満足げにソファにふんぞり返り、拍手の真似をした。
「すごいな君は。まあ指紋の問題もあるから、残骸を持ち去らないとは一概に言い切れないが、その辺りは犯人も気を使って、手間や荷物を増やさないようにしていただろうしね」
オレに言わせれば、どっちもすごい。英人は聖に挑戦的な目を向け、続ける。
「でも、そこまで考えが及んでいるならとっくに気付いているんじゃないのか。バッグの紐なんかじゃない。もっと単純なものにさ」
「単純な――もの?」
「髪だよ。長い髪の毛だ」
自分の頭に生えた金色の髪を引っ張る英人。
――ちょっと待て。
「あの。陽子――陽子は、ショートカットで……」混乱した様子の衛。
「知ってるよ。だからこの遺体は、陽子さんではない。そういうことだろ」
「陽子じゃ――ない?」
死体は陽子じゃない――その推理にオレは安堵したような、しかしまだなにも解決されていないということに改めて震撼したような、妙な気分になる。
「悪いな。確かに勿体付けすぎた」英人は軽く頭を下げる。「実は遺体が陽子さんでないというのは、こんな考察をするまでもなく明らかだったんだ」
「そうなん、ですか」
「ああ。遺体を発見したとき地下室の電気が消えていたことを、ついさっき聞かされたからね。聖君も人が悪い。それをもっと早く教えてくれていれば、色々悩まずに済んだのに」
地下室の電気?
「何故犯人が部屋の電気を消したのか。彼の推理では、犯人がこっそり部屋を脱出するためとなっていたけれど、もっと簡単で、かつ有り得そうな解が抜けてるだろ。犯人は電気を消さなかった――つまりそもそも点けなかった、という解が」
「点けなかった?」
「点ける必要がなかった。つまり、犯行があったのは日が暮れる前だったんだ」
「昨日、2006年4月1日の東京の日没時間は18時2分だ」笛戸博士が補足した。
「18時前に既にあの女性は殺されていた。つまり、19時過ぎまで生きていた陽子さんは被害者たり得ない。単純明快な理論だろう」
「じゃ、じゃああの女は、いったい誰なんだよ」オレの声は震えている。
「それについてはっきりとした答えは出せないけれど、全くの第三者と考えるよりは比較的妥当だと思われる人物がひとりいる」
――それは?
「陽子さんの友人だという女性だよ」
「あっ」
「宇頭――水萌?」
「まさか……彼女が」
口々に驚愕の声を漏らすオレたち。
「そのウトウさんという人は、髪が長かったんじゃないかな?」
衛が頷く。オレもたまにキャンパスで見かけたが、確かに彼女は長い髪をよくアップやポニーテールにしていた。
「でも、おかしいですよ。彼女には断られたって、メールで」
「じゃあ、そのあと予定が変わったか、陽子さんが強引に口説き落としたかしたんじゃないかな。なんにせよ、彼女が今日この屋敷に来ていた可能性はゼロじゃなかった。つまり、被害者にも十分なり得たわけだ」
「なんてこった……」
「あの隠しドアと燭台の間の距離は約2メートル。裏口を参考に考えて、扉から1メートルの距離ならば、扉が閉まる前に滑り込むことが可能だ」博士が分析する。「犯人の腕の長さを50センチ前後として、被害者の髪の長さが50センチあれば、なんとかくぐり抜けられる計算だな」
「宇頭さんの髪は、ポニーテールの状態で肩より下まであったから、下ろせば50センチ以上には……なるかも……」
「しかし、犯人自身はともかく、持っている首は間に合わず、壁に閉め出されちまうんじゃないか」
あくまで冷静な意見を出す聖。
「そこは本物で実験してみなければなんとも言えない部分だけれど、髪の先を手に持って走れば振り子の要領で首自体も前に振られるわけだし、それでも間に合わないようならブラックジャックのように前方に振り投げながらダッシュするとか、犯人は色々試したかもしれない。地下室内は不自然なまでに血塗れだったしね。仮に失敗しそうになっても、扉を抜ける前に立ち止まればやりなおしは利く」
「言うほど簡単じゃなさそうですが……」英人の答えに、聖は溜め息を吐く。「あまり想像したくもないし、とにかく先に進んでください」
「ああ。最初に言った通り、被害者が陽子さんではなく、犯行時刻が日没前だと判明したことで、君たちのアリバイは消えたことになる。いくらなんでも殺人の罪を庇い合っているということはないと仮定して、君たち外部の人間のうちの誰かが犯人だ」
「ちょっと待ってください。確かに俺たち3人にも犯行が可能だったことは認めます。けれど、それで内部犯説が完全に消えるのは納得できない。内部犯を否定する根拠は、犯人が地下室に閉じ込められたことと、斧の仕掛けを知らなかったこと、この2点でしょう。でも、笛戸博士や枝菜夫人――まあ、裏口の鍵穴の細工はなかったものとして――彼女はともかく、英人さん、あなただけはこの地下室から脱出する術がない。斧の話だってこじつけだ。つまり、あなたが犯人の可能性は依然残っているわけです」
「おれは犯人じゃないよ。この地下室の構造を知っているからね」
「だから、偶然首が切断されたってのはフリかもしれないでしょう。元々首を利用するつもりで、狙って切った可能性の方が遥かに高い」
「そういうことじゃない。おれが犯人なら、首だけがこの屋敷内から消え失せているのはおかしい」
「用済みになった首なんか、屋敷の中に置いておいたって仕方がないでしょう。家族に発見される可能性もあるし、さっさと捨てたほうがいい」
「それなら身体も早々に片付けてるよ。時間は十分にあった。だいたい、中途半端に捨てるくらいなら、誰かが持ち込んだような振りをして、さりげなく放っておくだろう。そう考えると、首が屋敷の外に持ち出されていることが、犯人が外部犯であることの証拠になる」
「持ち出されているのが、証拠?」
「だってそうだろう。犯人の立場になって考えてみればいい。被害者の首を利用して2つ目の隠し通路を突破しても、まだ3つ目があるかもしれない。4つ目もあるかもしれない。その時点で首は、犯人にとって唯一と言っていいくらいの武器だ。館を完全に脱出するまで手放せるわけがない。逆に、隠し通路のドアがあの2つだけだと知っている人間ならば、2つ目を抜けた時点で首は不必要になる。そうなったらむしろ、被害者の首なんて自分の犯行を示す最大の証拠品みたいなものだ。一刻も早く捨てなければならない。つまりおれが犯人なら、首は2つ目の燭台の上に置きっぱなしにされている筈だ」
「それは――隠し扉を閉めておかないと家族に怪しまれると思ったんじゃないですか」
「なら、首は隠し通路の内側に放置するよ。首だけ外に出しても仕方がないのはさっき言った通り。現実がそうなっていない以上、犯人は外部犯だ。異論は?」
英人が尋ねる。皆、無言だった。
「じゃあいよいよ犯人の考察だ。この時点で犯人たり得るのは、見知らぬ第三者の可能性を除けば5人ということになる」
「5人?」オレはみんなの顔を見回す。「なんで、そんなに」
「衛、俺、有太。宇頭水萌と陽子で5人ってことだろ」
「う、宇頭水萌は被害者――って、よ、陽子もかよ!」
「被害者でなかった以上、加害者の可能性は出てくるだろ。水萌だってまだ被害者と決まったわけじゃない」
「その通り。ただ、その宇頭水萌さんに関しては全く推察が及ばないんでね、早々に第三者扱いさせてもらう。これで残りは4人」
「陽子も違う!」衛が叫んだ。「彼女は殺人なんて、そんなことをする奴じゃ――」
「俺たちならやる可能性があるってのかよ」
「い、いや、そういうことじゃなくて」
「今更そういう感情論は意味がないんだ」一刀両断する聖。
「だけど」
「悪いが、実はおれも彼女は真っ先に除外できると思う」2人の諍いを止める形で英人が説明を始める。「なぜなら、この地下室には携帯電話の電波が届かないからだ」
「携帯電話?」
確かに、地下室では携帯の表示は圏外表示だった。
「あの部屋は元々パニックルームだった。壁や床の中に電磁波を遮断する導電繊維が埋め込まれている」博士が補足する。
「それがどうしたっていうんだよ」
「つまり、地下室からじゃ彼女は電話を掛けられないってことだよ。彼女からの電話が19時3分。もし彼女が犯人ならこれはもちろん偽装工作だろうが、状況から彼女は犯行後、少なくともこの屋敷から出たあとで電話を掛けたことになる。じゃあ、いったい携帯電話はいつ地下室に戻った?」
「あ……」
「裏口を開けて、外から携帯を投げ入れ」聖が反論の途中で舌打ちをする。「――るのは無理だな」
「ああ。あそこはドアが二重になっていて、外から投げ入れても内側のドアで止まってしまうからね」
「――俺たちが地下室に入ったとき、内側のドアは閉まっていた」
「なら無理だ。そもそもそんなことをするメリットがないしね。彼女が犯人という線は消えた」
「じゃ、じゃあ、あの電話は――」
「正真正銘、陽子さん本人からのヘルプの電話だった。彼女はどこかでなんらかの危害に遭い、そのあと携帯電話だけが地下室に移動された。そう考えるしかない」
「つまり――つまり、地下室の遺体に降りかかった惨劇と、陽子の身に起きたアクシデントは全くの別もので、それぞれ別の場所で起こったと?」
「そういうことだ」
そんな複雑な事態が起こっていたのか。
「いや……けど、もしそうなら、陽子の携帯を地下室に移動したのは誰なんだ」
「それはもちろん、それぞれのアクシデント両方に関与した人間、即ち真犯人の仕業だろうね」
「犯人は……水萌――多分――と、陽子と、2人を手に掛けたっていうのか?」オレは心の中で続ける。そして、そいつがオレたちの中にいるかもしれない、と?
「当然、陽子が電話を掛けた19時3分から首なし死体が発見される21時までの間に、見知らぬ第三者が侵入した可能性はあるでしょう?」
「18時以前に地下室で女性を殺害し、その首を使って脱出して、19時以降にどこか外部で陽子さんに危害を加え、彼女の携帯電話を奪った犯人が、再び地下室へその携帯を置きに戻って来る可能性? そんなものないよ。よしんばあったとして、その時点ではとっくに日が暮れている。2度目の脱出の際、犯人が部屋の電気を消す必要はない」食い下がる聖を今度は英人が切り捨てる。「――つまり、犯人は君たち3人の中に『しか』いない、ということになる」
そんな……だとすれば――オレは。「オレは携帯が発見される以前に地下室には入ってない!」
「それが正しいなら、確かに君は除外されるな。つまり残り2人だ」
「お、おいおい。そりゃちょっと……さすがに暴論に過ぎませんか。大体、携帯は俺たちが地下室に下りる前からあそこに落ちていた筈です。確か衛が蹴っ飛ばして俺が拾ったんだ。そうだろ衛?」
衛に同意を求める聖の顔には、いつものような余裕が感じられなかった。しかし、携帯が最初から落ちていたのは確かだったのだろう、衛は深く頷く。
「だが、歩きながらさりげなく床に置いたり、それを自分で蹴飛ばす振りなんて、誰でもできる。地下室は暗かったんだからね」
「待ってくれ! 落ちてたのは本当なんだ!」
「もういい衛」聖は既に衛もオレも見ていない。「仮に俺たちのうちどちらかが犯人、あるいは俺と衛が共犯だとしても、論理的にこれ以上は特定できない。だろ? たとえその可能性が低かろうと、俺たちは携帯が最初から地下室に落ちていたと主張する。水掛け論になるだけだ」
「そんなことはないよ。君たちのどちらかが犯人だと分かった時点でおれたちには十分な情報だし、悪いが特定も不可能じゃない。お世辞にも論理的とは言い難いが、水掛け論にはならない」
「なん……だと?」
「考えてみなよ。そもそも犯人は何故、陽子さんの携帯を地下室に置いたんだ。被害者の携帯だから、そりゃ持っていると色々まずいだろうが、なにもわざわざ地下室に捨てなくたっていい。ホールでも、外の茂みでもいい。理由がある筈だろう。地下室から首を持ち去った理由があるように、携帯を地下室に置いた理由が。衛君」
突然名前を呼ばれ、びくりとする衛。
「君が最初に蹴飛ばしたというもの。それ、果たして本当に彼女の携帯だったのかな? さっきの話だと、拾ったのは聖君だ。最初に落ちていたものがなんだったにせよ、拾うときに彼女の携帯にすり替えることは可能だったわけだ。最初から落ちていたものを、君は見ていない」
「でも、確かにあの感触は――」彼は言っていた。なにかが足に当たり、死体の方へカラカラと滑っていったと。「携帯っぽかったような」
「成る程。しかし、携帯は携帯でも、陽子さんの携帯だったとは限らない。もしそれが、犯人の携帯だったら?」
「――まさか」
「そもそも、犯人が危険を冒してまで、せっかく苦労して脱出した犯行現場に戻ってくるなんて、変だろう。自分が殺した人間の捜索隊なんて、参加するもんじゃない。のこのこやってきたってことは、犯人には犯行現場に戻ってくる理由があったんだ。――忘れ物をしたという間抜けな理由が」
「忘れ物……」
「犯人は地下を脱出する際、自分の携帯電話を落としたんだ。おそらくその場では気付かなかった。気付いたときにはさぞかし愕然としたことだろうね。自分と遺体との関係を示す最大の証拠品が、あろうことか犯行現場に残ってしまったんだから」
「それで、陽子の捜索にかこつけて戻ってきた、と」
「地下室に侵入して、首尾良く誰にも気付かれずに携帯を拾えれば良し、仮に自分以外の誰かが先に発見した場合は、さりげなく自分が受け取って、あらかじめ用意しておいた陽子さんの携帯電話とすり替えるつもりだったんだ。地下室が暗いことは知っていただろうから、色や形状が多少異なっていたとしても十分に誤魔化しが利くと見込んだわけだ」
「もし、そうなら……」呆けた表情の衛。
「もし、そうなら犯人は――地下室に下りるまで自分の携帯電話を持っていなかった人物」確信に満ちた英人の言葉。
「陽子の電話を町で受けた衛は、除外される」オレの喉から掠れた声が絞り出る。
「残るはひとり――端田聖、君だけだ」
〜マモル 2006/04/02 02:36〜
「嘘だ――」僕は身を乗り出す。「嘘、だよな、聖。おまえが陽子を……陽子とあの子を」
「憶測だろ、ただの。なんの証拠もありゃしない」
「違う! 俺はおまえの口から『殺していない』って言葉が聞きたいんだ!」
「そんな言葉は聞けないよ。彼が犯人なんだ。最初から、おれの推理をどんどんややこしい方向に導いてた。直感で分かったね」
「直感だ? ここに来て、それはないでしょう。最後の限定は単なる想像だ。いや妄想といってもいい。ちゃんとした証――」
「ああ証拠を出せば気が済むのかい、君は」英人はあくまでも揺るがない。「じゃあ出そうか。ちゃんとした証拠」
「……出してみろよ」
「先程『あらかじめ用意しておいた』と言った、陽子さんの携帯電話。犯人特定のための重要な証拠品を、犯人がいつまでも身に付けておいたとは思えない。ましてや、君が陽子さん失踪の詳しい経緯を聞いたのは屋敷へ来る車中だったんだろ。君が携帯電話の奪還計画を立てたのがその時なら、すり替え工作を万全にするためにも、彼女の携帯電話を、屋敷へ侵入する前に入手しておく必要があった」
「入手しておく、だって?」
「そう。携帯が元々どこにあったか。それは当然陽子さんの傍らだろう。だから君は、そこまで携帯を取りに行かなければならなかった。つまり――」
英人は断言する。「ここに来る前にどこかに寄った筈だ」
「なにを馬鹿なことを!」
してやったり、という表情の聖。
「俺はどこにも寄らなかった。直接屋敷に来た。そうだろおまえら!」
「確かに……」
確かに。
「どこにも寄らなかった……」
どこにも寄らなかったけれど。
「でも」
「でも――なにかそれらしい行動を取ったんだろう、単独で」
そうだ、
屋敷に着いたとき、
あのとき――彼はライトを、
「ライトを取りに――トランクへ」
「そこだ」指を鳴らす英人。「陽子さんは、彼女の遺体は、今も彼の車のトランクにある」
「馬鹿な。出鱈目だ!」
「じゃあ見せてもらえるかな、トランクの中を。もし中が空なら、君は無実と認めよう。どうだい?」
〜ヒジリ 2006/04/02 02:41〜
「――まったく、ついてないな」
俺は溜め息を吐き、ソファから立ち上がる。まさかここまでかっちりと追い詰められるとは、この英人とかいう男、侮りすぎた。
「聖……本当なのか」つられて立ち上がり、詰め寄ってくる衛を俺は一瞥する。
「そうだよ。本当に馬鹿ばっかだな。どう考えても俺が犯人だろうが。よくばれないもんだと思ったぜ、自分でも」肩を竦める。「確かに2人とも俺が殺した。けど、元はといえば陽子が悪いんだぜ。あいつがいきなり道路に飛び出してくるからさ」
アルバイトからの帰り、近道のために普段は通らない笛戸邸近くの山道を車で抜けていた俺の目の前に、急に人影が飛び込んできたのは、夕方の5時頃だった。
あっと思ったときには既に遅かった。車体を通じて全身に響く鈍い衝撃。直感でもう手遅れだと思った。
最悪の展開が脳裏をよぎったが、幸いにも車通りの全くない山道だ。今ならなんとかなる――俺はそう確信した。
「轢き逃げ犯の検挙率がなぜその他の殺人に比べて高いか分かるか。現場に残る証拠が桁違いだからだ。俺の場合、車の凹み自体はそれほどのものでもなく、ぱっと見では分からない程度だったが、視認できないレベルの塗料片やブレーキ痕などは確実に現場に残ってしまっている。こういう場合どうすればいいか。一番簡単なのは、遺体をどこか別の場所に捨てることだ。遺体という最大の証拠が消える上、事故現場がどこだか分からなくなれば、警察はなにもできない。この時期なら1週間も経てば道路上の痕跡は雨に洗い流され、さっぱり消えてしまう」
「それで彼女をトランクに――?」まだ信じられないという表情の衛。
「そうだよ。轢いたのが陽子だってことはその時点で気付いた。彼女がなんでこんな場所にいるのかは皆目見当が付かなかったが、こうなったらとにかく運ぶしかない。俺は彼女をトランクに積み込んだ。――そこを目撃されたんだ。茂みの奥から、あの宇頭水萌にな」
「やはり水萌さんは陽子と一緒に来ていたのか」
「ああ。事故現場だけならまだ言い逃れできたんだが、トランクに積むところを見られちゃどうしようもない。俺は悲鳴を上げて逃げる彼女を必死で追ったよ。あいつは小道をどんどん上っていき、この笛戸邸の裏口に駆け込んだ」奇しくも、のちに有太が通った道だ。「そこでドアを叩いて、助けを求め始めた。ここが廃屋だと思っていた俺は、追い詰めたとばかりに近づき――うっかりあのガーゴイル像に手を掛けちまったんだ」
「隠し扉を開けたのか」
「偶然な。しかし彼女は絶好の機会とばかりに屋敷の中へ入っていった。ドアはすぐに閉まったが、像の仕掛けは見抜いたからな。有太みたいにして、俺も地下室に入り込んだよ。今度こそ追い詰められた彼女は泣きながら許しを乞うてきた。もちろん俺は許さなかった」
人殺しなんてするもんじゃない。彼女の頭を殴ったときのあの感覚は、思い出したくもなかった。
「けっこうしぶとい女だったが――、俺が閉じ込められたと知ったのは、彼女が完全に動かなくなってからだったよ」
もうすぐ日が暮れる。車は山道に路駐してあるし、一刻も早くここを抜け出して、死体を隠しに行かなければならない。俺は地下室からの脱出方法を模索し始めた。
スイッチ類には気付いていたが、扉との位置が離れすぎていたため、その開閉とは関係なさそうだったし、この館にもし住人がいるとすれば彼らに発見される可能性があるので初めは手を触れなかった。しかし、万策尽きた時点で仕方なく押したところ、あの斧が作動しだして――
「偶然にも水萌の首は切断された。恐ろしい所に迷い込んじまったと思ったよ。しかし、それで逆に脱出の方法があるかもしれないと予想できた。この屋敷はマニアックだ。そこで、今までとは違う視点で部屋を探ってみたんだ。隠し扉と燭台のスイッチはすぐに見付かったよ」
燭台を離すと同時に扉へ駆け込む行為を何度か繰り返してみて、どうしても距離が遠すぎると分かった。そこであの首を重しにすることを思い付いたのだ。
「やっと出られると喜んだら、その先にもう一つ扉があって絶望したね。それで、ちょっと考えた。このまま闇雲に進んでも、トラップの絶対数が分からない以上、いつかは立ち往生する。それよりは、オールマイティなツールを手に入れるべきだってね。だから、腕や足を切断して第2第3の重りを作るなんていう発想はすぐに捨てたよ」
「ツール、だと……?」
「そうさ。考えてみれば簡単なことだった。彼女がポニテじゃなくてアップにしていたお陰で、髪が斧に切断されなかったこともラッキーだった。『お
誂え向き』って言葉は、まさにあの水萌の首のためにあるんじゃないかって思ったね。ま、実際に使い出したら、結局扉はあの2つだけで拍子抜けしたんだが」
ホールに出て、玄関の内鍵を開けたら、あっさり外に出ることができた。結局屋敷に人の影があるかどうかは判明しなかったが、なんにせよ誰にも見られなかったのは幸運だ。俺は彼女の首を玄関脇に投げ捨てて、庭に周り、小道を抜けて、ようやく自分の車に戻ることができた。
「投げ捨てた?」
「そうだよ。まだその辺の茂みの中に転がってるんじゃないかな。カラスが食ってるかもしれない。――とにかく車に戻った俺は、血の付いた上着をトランクに放り込んですぐに車を出した。隣りの山に陽子を捨てるためにな。その時点では、まさか再びこの屋敷に舞い戻る羽目になるなんて思ってもいなかった」
「携帯電話を忘れたことに気付いたのは?」
「衛から連絡を受けたときだ。なんで衛が携帯に電話をくれなかったんだろうってな。全く、自分の間抜けさ加減に腹が立つね。あの時点ではなにがなんでも断るべきだと思ったが、おまえの様子があまりにもおかしかったんでな。念のために合流してみたら、ビンゴだ」
「陽子はその直前まで、まだ生きてたんだな。最後の力を振り絞って、君の車のトランクから僕に連絡を……」
まったく、死に損ないが余計なことをしてくれたものだ。
「その事実に気付いたのが合流したあと、車の中ときたもんだ。どれだけタイミングが悪いんだとね。結局俺は、おまえらの隙を見て自分の携帯を回収しなければならなくなった」
「君の最大のミスは携帯電話を落としたこと。そして最大の不運は、この地下室が圏外だったことだ。その事実に気付いて、さぞや焦っただろうね。おれならその時点で自白してるよ」
溜め息混じりに言う英人。
「自白だ? おいおい。おいおいおいおい馬鹿かあんた。するわけないだろう。ギリギリまで希望を持つだろ普通。足掻くだろ。大体、衛は陽子のことで頭が一杯だし、有太はどうせ気付きやしないんだ。あんたたちの介入さえなければ、俺は上手く誤魔化せてたんだよ。そうだろう。畜生。どうしてくれるんだ、え? まったく。こんなところで――」
喋りながら、衛の身体が緊張するのに気付いた。俺はすかさず身構える。
瞬間、顔に衝撃が走った。
〜ユウタ 2006/04/02 02:55〜
衛が身を躍らせるよりも一瞬早く、オレは横から聖の顔面にストレートを見舞っていた。
衛に殴らせるわけにはいかない。殴っても余計惨めな気分になるだけだ。
そんなのはオレだけでいい。
一撃でソファの向こうへ倒れ込んだ聖は動かなくなった。
「僕は信じてたんだ。最後まで。聖なら――なんとか彼女を救ってくれるって――」
拳を下ろし、ぽつりと衛が呟いた。
オレだって――もちろん同感だったさ。
「そろそろ潮時じゃないかな、父さん」英人が静かに言う。「犯人はともかく、もう無実と分かった彼らを閉じ込めておくことはできない。被害者も増えたんだし、事件を隠し通すのは難しい。こんな呪われた屋敷は捨てるべきだ。外国暮らしも悪くなかったろう」
「やむを得んか――」老人は天井を仰いだ。「生まれ故郷は恋しいが、騒々しいのはもう懲り懲りだ」
「なによ、あたしは嫌ですからね!」婆さんがてんたくるを上下に振って抗議する。安眠を妨害された彼は一声鳴いて彼女の手をするりと抜け、割れた窓の鉄格子の隙間から外へ逃げていった。「嫌ぁーっ! てんたくるっ!」
「どうするんですか?」オレは恐る恐る3人に聞く。
「どうするもなにも、我々は善良な一般市民の幽霊だ」
「そしてここは、人知れぬ幽霊屋敷ってことだよ」
2人は嫌がる婆さんを両側から抱え、引きずって部屋から姿を消した。
追う者はいなかった。
そして、丑の刻が終わると共に――
幽霊屋敷で生きている者は、オレたち3人だけになった。
06/05/18