August 2003


京極夏彦『百鬼夜行――陰
京極夏彦『今昔続百鬼――雲

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101京極夏彦『百鬼夜行――陰』(講談社)
★★★☆☆

「正当だからといって不当なるものを叩き潰すような遣り方をして
良いものなのでしょうか。不当なものは潰されて当然、
と云う考えが基本にありますとね、
結局は潰した方が正しい、と云うことにもなり兼ねませんわ。
すると、力の強い者、声の大きい者が勝つことにはなりませんか」(P.206)

 京極堂シリーズに登場し、ときに自らの行動や思考で物語を混乱に導き、ときに京極堂によって憑き物を落とされ救いを得る、数々の登場人物たち。本書の主役は彼らである。

 彼らが如何にして「日常」から「非日常」へ引きずり落とされたのか、如何にして「怪異」に取り込まれたのか。その顛末が、象徴的な各種の妖怪たちになぞらえて語られる。よって、これは解決のない、救いのない物語である。

 本書の物語に整合性を求めるなら、京極堂シリーズを読む他にない。逆に、整合性さえ求めなければ、本書は独立した怪異譚として成し得ている。整合性のない物語の不安感には底知れぬものがある。それを味わいたければ、是非京極堂シリーズを読むことなく、あるいは一度読んでしまった者でも、時間を置いて、朧げな記憶の中で一読を。

 お気に入りは、鮮烈な悪夢が襲いかかる「鬼一口」と、日常が徐々に狂気に蝕まれていく描写が秀逸な「煙々羅」。「川赤子」も――畏い。 to top



102京極夏彦『今昔続百鬼――雲』(講談社)
★★★☆☆

お化けの研究など、科学の徒には迷信で、学識の徒には不謹慎で、
常識人には非常識で、貧乏人には道楽である。
でも、お化けも出ないような世の中がろくなもんじゃないと云うことは、
戦争に行った者なら誰だって知っている筈なのだ。(P.10)

 古来より、ミステリに登場する探偵(役)というのは変人である。

 彼らは、作中で起こる事件や謎を、他の登場人物に先駆けて解き明かし、解決に導く。そうした特権を作者によって与えられているからである。これは一種の贔屓であり、真面目に役をこなしているその他の登場人物は探偵役に比べて損な役回りを強いられている。何せ彼らには謎を解くことが出来ないのだ。せいぜいが、探偵に事件解決のヒントを与える役所止まり。探偵役が利口なら、他の連中は馬鹿だと言われているようなものだ。

 それではいけないというので、作者は釣り合いを取るため、探偵役にある要素を付加してバランスを取る。例えば社会的生活能力の欠如、一般常識の欠如、財産管理能力の欠如。例えば書痴である、マッドサイエンティストである、病弱である、軟弱である、意地汚い、口が悪い、わけが分からない、――妖怪馬鹿である。

 当然の如く、おおむねマイナス要素が付加される。しかし、ちゃんと事件を解決するから信頼はされ、周囲からの評価は得られる。こうして結局、探偵役は「変人」にされてしまうのである。

 そんなわけで、妖怪馬鹿の多々良勝五郎先生も変人である。何せ妖怪のことしか考えていない。事件に遭遇しても、だから妖怪のことばかり考えている。そして真相に到る。妖怪のことだ。「わかった!」ついに真相を語り出す。当然妖怪のことである。しかし周りの人も読者もついつい事件に関係のある事柄だと思って聞いてしまう。犯人も観念する。でももちろん彼は妖怪のことを語っているだけなのである。何故か一件落着する。

 この多々良先生、初登場は塗仏の宴で、その時にはそれほど変人だとは思わなかったのだが、本書では探偵役だけあって変人度が爆発、蓋を開けてみれば京極堂と榎木津の悪いところを凝縮したようなキャラなのである。今までの京極夏彦のテイストからはほど遠い筆致が違和感あれども、軽快なスラップスティックとしては秀逸な出来であろう。

 一つ挙げるなら、村を覆う数々の謎と絵解きと博打勝負の行方とが綺麗に纏まる「手の目」。「古庫裏婆」は話としては今一ながら、陰摩羅鬼の瑕とリンクしているので、ファンは必読かな。 to top


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