095京極夏彦『姑獲鳥の夏』(講談社)
★★★★☆
「呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。
何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。
プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪うという。
呪いは言葉だ。文化だ」(P.414)
最新作、
陰摩羅鬼の瑕が遂に刊行されたので、改めて読み返した。
もはや私などがどうこう言うまでもなく、これは名作である。導入である、語り手関口と本シリーズの探偵役である京極堂の印象的な対話シーンを読んだ瞬間から、我々は作者の放った呪いに罹る。呪いはやがて姑獲鳥の姿をとって立ち現れ、夏の夜の悪夢さながらの物語を演出する。黒衣の京極堂に祓われるまで、いや、怪異の全てが解体されてなお、陽炎のような微熱は残る。寒々しくも暑いこの読了感――これが、姑獲鳥の夏だ。
民族社会――ムラという共同体の中で機能し続ける呪いのルール、脳と心、そして記憶の新解釈、不確定性理論。様々な分野の膨大な知識・情報を圧倒的筆致で捏ね合わせ、馬鹿馬鹿しくも凄まじい法螺話に組み上げる。これこそがエンタテインメントの原形であり、完成型でもある。
加えて、妖怪を迷信やモンスターとしてではなく、科学を語るのと同じ言葉で語ってくれたことに賞賛を贈りたい。科学万能の現代においても、変わらず生存する妖怪たちの姿を、成人した今なおこの目にすることが出来る喜びは、何物にも代え難い。
妖怪好きは、だからやめられない。
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096京極夏彦『魍魎の匣』(講談社)
★★★★☆
097京極夏彦『狂骨の夢』(講談社)
★★★★★
日本の神は人間と変わりません。いや、人より余計に喜び、
悲しみ、怒り、泣き、怨み、妬み、間違うことすらある。
退治もされる。和魂も荒魂も人より多く持っている。
つまり人並み外れた者こそ神になる資格がある。
だから人並み外れて酷い目に遭ったり、激しく怨みを抱いた者も
また神になることができるのです。
だからこそ崇め、奉らなければならぬ。
古来、貴いから祀られるという神様の方が少ないのです(P.156)
骨になる夢から物語は始まる。
ゆっくりと嫌いな海に沈んでいく夢だ。ゆっくりと沈みながらゆっくりと骨になった自分は、急激に浮上する。ぽっかりと水面に浮かび、見上げるとそこは井戸の中だ。
この幻想的な夢の情景と、自分の記憶に他人の記憶が混ざりだすという恐怖が、騒騒という海鳴りをバックに描き出される序章が、何とも言えず良い。この部分だけ何度も読み返してしまう程に、醸し出される不安定感が心地良い。この時点で、本書は私の中で別格扱いになった。
物語は進む。元夫の幽霊に襲われ、殺して首を切ってしまう女。それでも何度も蘇る幽霊。山盛りの髑髏の前で交わう男女の夢を見る男。生首を持った血塗れの神主。髑髏を抱く坊主。海を漂う金色髑髏。菊花紋の匕首で集団自殺した男女。檀家のいない謎の寺――
「骨」というキーワードに纏わる凡そ破天荒な数々の怪異が、一人の憑き物落としの手によりみるみる解体されていくクライマックスは、正に圧巻の一言。そこで行われる「左道の邪法」こそ、現代の陰陽師が成せる白眉の業であり、その一歩間違えば滑稽極まりない只の解決編を、緊迫感漲る迫力の法術として描ききる作者の才には目を見はるものがある。
前作よりパワーダウンしているという評が目立つが、それは単にページ数の問題ではないだろうか。むしろ内容に関しては前作を上回る密度となっており、これは作者の技量が上がり、短く纏める事が可能となったと捉えるべきだろう。
それらに加え、今回はミステリとしての描写にも今まで以上に力が入っている。陰惨な物語だったにも関わらず、読後感が清々しいのも好印象。心理学、精神分析を踏まえた京極堂の蘊蓄は冴え、榎木津も普段以上に大暴れ。
京極小説の集大成がここにある。お薦め。
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098京極夏彦『鉄鼠の檻』(講談社)
★★★★☆
099京極夏彦『絡新婦の理』(講談社)
★★★★☆
100京極夏彦『塗仏の宴 宴の支度/宴の始末』(講談社)
★★★★☆
166 有栖川有栖 『月光ゲーム』(創元推理文庫)
★★★★☆
恣意的に自分が一番気に入った
面白い解釈を人に押しつける、というのが
ダイイング・メッセージやないですか。(P.135)
記念すべき有栖川有栖の長編デビュー作。
有栖たち英都大学推理小説研究会の面々がクローズド・サークルで殺人事件に巻き込まれ、読者への挑戦状を挟んだ上で、探偵役たる江神二郎部長がロジカルに謎を解く――という、まさに直球な犯人当てミステリなのだが、その舞台設定だけはぶっ飛んでいる。
なにせ火山噴火だ。危機的状況にも程がある。殺人犯人から身を守るより先に、自然の猛威から逃れなければならない。そのため、よくある雪の山荘もののように各人が自分の部屋に引き籠もるなどという悠長な状況にはならない。とにかく皆で協力し合ってサバイバル。結束必至。それなのに、パーティ内に潜む犯人によって、着実にメンバーが消されていく。不可能犯罪などではない代わりに動機の見当も付かない。無言で迫る二重の圧力。この緊張感がたまらない。
そして――危機的状況下で若者らしい恋愛劇なども交えつつ、最後の最後に江神さんがしっかり決める。彼は、漫画やドラマでお馴染みの「陽気でがさつながめつい関西人」ではない。当然だ。関西弁を話す人々がそんなステロタイプな性格ばかりでは、関西を舞台にしたドラマなど作れっこない。そういった意味で、本作は生きた関西弁で織りなされる人物ドラマを十二分に楽しめる作品といえる。
もちろん、犯人特定のロジックについても花丸。犯人を指摘するに至る論理展開は明快である一方、多少強引に感じられもするのだが、そのあとに列挙される傍証の数々には圧倒される。ひとえに
レッドヘリング(偽の手がかり)が秀逸なのだ。ほら騙されたろう、という作者の得意顔が見えるようで、悔しいながらも拍手せざるを得ない。
1988年に上梓された作品である以上、今読むとところどころに時代遅れな表現が散見されたり、ミス研面々の古典ミステリ引用癖が鼻に付く部分もあるにはあるが、それを上回る本編の面白さによって、逆に「ロジックに廃れはない」ことが証明されているように感じた。ロジック派としては押さえておくべき良作だ。
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168京極夏彦『百器徒然袋――雨』(講談社)
★★★☆☆
いいか善く聞け、犯罪者と云うのは
法律を守らなかった人のことだろう。
そういう人は法律が裁けばいいの。
でもって、悪い奴は神が裁くしかない!
天罰だと云っておろうが!(P.90)
京極夏彦の妖怪シリーズでは京極堂が
理法を司り榎木津が
情念(を司る対の構図になっている、とはよく言われるのだが、ではその榎木津の出番を中心に物語を構築すると一体どういうものになるか、というのがこのシリーズの理念であろう、と読む前にはそう思っていた。
が、実際にはそうではなく、あくまで主人公サイドの動きは京極堂に仕切られている。ただ、相対する勢力がいかにも小者であるために、京極堂はその統率力を弱め、榎木津に背負わせる部分を増やしているのだ。要するにスレイヤーズに対するところのスレイヤーズすぺしゃるに相当する小ネタ群。作者の手に掛かれば短編サイズの物語もこれほどのボリュームとなる。重厚なテイストとライトな雰囲気が楽しめる一冊。
鳴釜
吉凶の前兆に釜が鳴るというのは古来より有名な占法。本作ではそれと榎木津の大岡裁き、そして釜という音からイメージされる「カマ(陰間)」を掛け、痛快な勧善懲悪劇に仕立てている。
本作より登場し不幸にも榎木津の下僕のひとりにされてしまう語り手が、外部視点より描く京極堂ファミリー(?)の姿が実に楽しい。昭和の世界において彼らの周りだけが如何に異空間めいているかを思えば、本編で不可思議な事件に何度となく巻き込まれる不自然さもいくらか緩和されるというものだろう。
瓶長
日本では、生き物だけではなく器物も年を経ると化けると考えられていた。それが付喪神(九十九神)で、瓶長もそのうちのひとつ。ただし百器徒然袋の作者鳥山石燕はこの瓶長を、汲んでも汲んでも水が涸れることのない福の入った瓶としている。壷の呪いを打ち消さんと次々に新たな壷や瓶を集め、壷屋敷と化した山田邸に果たして福は訪れるのか。
壷を集め続けるという異様な行動と榎木津の抱えるふたつの難題、そして壷屋敷を狙う幾つもの怪しげな勢力。バラバラの伏線が京極堂の策と榎木津の大暴れで一挙に解決するカタルシスはなかなかのもの。本作中で最も楽しめたエピソードでした。
壷に絡んで待古庵の今川が再登場。こういうキャラ見せの技法は相変わらず上手い。
山颪
百器徒然袋は器物の妖怪がチョイスされている筈なのに、何故ここでヤマアラシが、と思う方もいるかもしれないが、ここでいう山颪は「おろし金」の妖怪。だから大根が出てくるわけだ。無論、しっかりヤマアラシも掛かっている。江戸時代に豪猪という名で知れ渡っていた動物はどうも現在のヤマアラシとは似て非なる動物のようだが、石燕はその背中の無数の棘とおろし金の剣山を掛けて妖怪山颪を創造したのだろう。
今回は釣り堀のいさま屋こと伊佐間と、ようやくベストオブ下僕の関口が登場。語り手と似たもの同士の扱いを受けているのが笑える。
内容は本作中で一番ミステリめいた体裁ながら、やっていることはただの弱い者(犯人&関口)虐めにしか見えないのがご愛敬。妖怪蘊蓄が少ないのは大いに不満だが、ものが山颪ではこんなところか。
各エピソードは、塗仏の宴、
陰摩羅鬼の瑕、邪魅の雫、それぞれの後日談(といっても別になにも語ってはいないが)を描いている。シリーズファンはそういった補完の意味合いでも読んでおくべきかもしれない。
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169 有栖川有栖 『孤島パズル』(創元推理文庫)
★★★★☆
「そうやない。俺がおかしかったんは
二人が間抜けな会話をしてたからやないんや。
それを横で聞きながら、一瞬なるほど、
マリアは頭がいいと思った自分がおかしかったからや」(P.190)
再読。江神シリーズ第2弾。例によって内容をほぼ完全に忘れていたせいで想像以上に楽しめた。
ミステリのジャンルでは、なにをおいてもパズラーを好む私だが、実はミステリに作中作的に挿入されるパズルについてはそれほどときめかない。むしろ、せっかく犯人と探偵役が打々発止の頭脳勝負をしているのに、つまらないパズルでお茶を濁すな、と憤慨することすらある。
一部の例外を除き、ミステリにおける謎は解けることが前提に描かれているが、それはあくまでメタレベルの問題であって、読者や少なくとも作中人物にとってはそこに明快な解法が存在するかどうかから疑って掛からなければならない。それがサスペンスに繋がるのだ。一方作中でパズルとして提示されるものは、作中においてすら解けることが約束されており、解く過程に感心することはあっても、解けたこと自体にはなんの感慨も湧かない。クライマックスでそんな謎解きをされるのは、無粋極まりない。
こういうことを書くと、パズラー小説だって構造としては作中パズルと変わらない、即ち作中で解かれるかどうかは問題ではなく、読者が解けることが約束されたパズルが作中で提示されていることに違いはない、と言われそうだが、そういうわけではない。
そもそもミステリの面白さとは、無限の可能性を有した現実から如何にしてロジカルなパズルを抽出するか、といった部分にある。リアリティとして提示される数多の情報からパズルに必要なピースだけを集め、物語の中にパズルの体裁を組み上げることこそがカタルシスなのであり、それを解く段階は副次的なものといっても差し支えない。必要なピースがあらかじめ揃えられ、純粋に解くことだけを楽しむパズルとは面白さの種類が違うのだ。
まあとにかく、そんなわけで題名にパズルを冠し、作中でパズルが呈示される本作に私は最初からあまり良い印象を持っていなかった。過去に一度読んだ際にも、作中の「進化するパズル」とやらがやたら蛇足なものに感じられ、以来長いこと本作は私の記憶にいまいちな作品としてインプットされていたのだ。
ところが、今回読み返してみて、その出来の良さに驚いた。「進化するパズル」の印象が余程強かったのか、本作のパズラーとしての出来栄えが完全に記憶から抜け落ちていたようだ。これは間違いなく、90年代に私が読んだ中で最高のフーダニットに値する。
確かに「進化するパズル」については、前回読んだときとそれほど変わらない印象を抱いたのだが、こんな素晴らしい推理が付いてくるならなにも文句はない。人間が描けているとかどうとかも関係ない。長髪から、どうイメージしても作者の顔しか浮かんでこない江神さんにすら惚れそうだ。
教訓――私の記憶はまるで当てにならない。過去の読了作品中にまだまだ傑作が潜んでいるかもしれないと考えると、勿体ないようなお得なような。
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170 有栖川有栖 『双頭の悪魔』(東京創元社)
★★★☆☆
弘法の力で竜を倒してみると、
木更村の娘を差し出しただけでは
竜が満足しなかったわけが判りました。
――竜には頭が二つあったんです。
竜は両方の村から生贄を出せ、と暴れていたんですよ(P.74)
再読。江神シリーズ第3弾。これについては前2作と少し事情が違い、映像化されたドラマ版を先に観てから原作を手に取った。その後、推理小説サークルで再びドラマ版の鑑賞会があったりしたため、けっこう細かく内容を覚えていた……つもりだったのだが、久々に読み直してみると、あれぇこれってこんな話だったっけ? という部分が多々。やはり私の記憶は当てにならないようだ。
3度に渡って挿入される「読者への挑戦」や、2つの村で同時進行する事件を追うアリスとマリアのダブル語りなど、前2作に比べ見所の多い豪華な構成。けれど、ロジックという観点で語るとどうしても『孤島パズル』に軍配が上がる。どうも記憶がドラマ版の展開とごっちゃになっていたようで、ここで例の証明が来る、と思っていたら来なかったり、江神さんの言動が想定と食い違っていたりと、楽しめるはずの部分で楽しめない微妙なもどかしさがあった。
そう考えると、焼き直しに近いドラマ版の方がロジックの完成度が高い部分が多かったのではないか。確かに配役が微妙(特に江神さんや真犯人)な部分はあたのだが、純粋にミステリとして見た場合、原作の弱い部分が上手く補強され、冗長あるいは余計な描写が適度にスポイルされて丁度いい仕上がりになっていたように思う。まあ私が読んだのはハードカバー版なので、文庫の方ではその辺を含め、改良されているのかも知れない。
ともかく、原作キャラに幻想を抱いている方以外ならビデオ版はお薦め。なぜか問題編と解答編2本に分かれ、解答編には40分あまりにもなる問題編ダイジェストが挿入されているという意味不明な構成な上、今さらの入手は非常に困難なのだが。
なんだか原作を貶しているような感想になってしまったが、本作の見所はなんといっても「芸術家の村」という魅惑的な設定と、それを最大限に生かした構成、魅力あるキャラクタ描写など、「小説」としての面白さが前2作に比べて際立っている点。その上、極上のロジックと意外な犯人、当時においては前代未聞の犯罪トリックが楽しめるのだ。ミステリファンとしては必読の作品だ。
江神シリーズの長編が本作を最後に止まっているのは実に残念な限り。火村シリーズは青春っぽさやそれに伴うロケーションの臨場感が足りないので、作者には是非とも続編を希望したい。
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173 島田荘司 『北の夕鶴2/3の殺人』(光文社)
★★★☆☆
知識としては知っていたが、街のすぐ北に、
これほどの原生林が広がっているものとは考えなかった。
はるか地平まで続いている。雪をかぶり、まるで雲海のような印象である。
都会に住み慣れた日本人が、久しく忘れていた光景だった。
なるほどこういう世界の、これは犯罪なのだなと、吉敷は認識を新たにした。(P.130)
再読。新本格の立役者である島田荘司の作り上げた名探偵といえば御手洗潔が有名だが、もうひとり、優秀な刑事である吉敷竹史も忘れてはいけない。叩き上げの刑事らしく、タフなフットワークに明晰な頭脳を兼ね備えた、非の打ち所のない男。しかし、そんな彼にも離婚歴というただひとつの汚点――少なくとも彼自身はそう認識する――がある。彼の元妻である加納通子から掛かってきた一本の電話。そこから奇妙な事件の幕が開く。
寝台車「ゆうづる」から消えた殺人犯。釧路の原生林に囲まれた風変わりなマンションに伝わる夜泣き石伝説。石が鳴き声を上げる夜、必ず起こる不可解な惨劇。後ろ向きに歩く鎧甲の亡霊。それらが有機的に繋がり、悪魔的殺人計画が明らかになる解決編は、御手洗シリーズに負けるとも劣らない鮮やかさだ。
また、吉敷刑事が妻への思慕や自身の生き方への葛藤などを絞り出しながら一歩一歩事件の真相に肉薄していく生々しい描写は、まさにハードボイルドのそれであり、作者の力量――トリックだけの作家ではないという自負を、まざまざと見せ付けられるものだ。
確かに、現実的な世界観に持ち込まれた絵空事としか言いようのないトリック、周到な計画殺人を立てたにしては直情径行すぎる黒幕、予断で捜査を進めすぎる主人公など、多くの欠点をあげつらえる作品ではあるものの、初出当時(昭和60年)における男の熱い生き様を思い出させてくれる力作に間違いはないだろう。
本作のイメージとしては、やはり後半のマンション殺人の印象が強く心に残っていたが、再読では冒頭の「ゆうづる」から消えた犯人の足取りを推理する部分が案外良くできているな、と感心した。それにしても私はいまだに、タイトルにある「2/3」がなんのことなのかがよくわからない。気になるなぁ。
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