107貫井徳郎『被害者は誰?』(講談社)
★★★☆☆
本物のトリックは、紛れもなく工夫の妙で、
視聴者がそれを知ったときがいちばんの楽しみでなければならない。
よいトリックというのは視聴者に、
”なんで、それに気付かなかったのだろう?”
と言わせるものだ。
(マーク・ダウィッドジアク『刑事コロンボ レインコートの中のすべて』P.92)
デビュー作(
慟哭)を読んだときにも感じたのだが、貫井徳郎という人は非常に素直なミステリを書く人なんだなと思う。最初のインスピレーションをそのままの形で作品の中に表出せしめるというのは、それはそれで一つの技術だ。
ミステリ作家というものは基本的にひねくれ者で、自分の編み出したトリックが解決編まで読者に見破られぬよう、十重二十重の防壁を施す。それは読者に驚いてもらおうとするサービス精神の表れなのだが、ともすれば「反則」「御都合主義」「トリックのためのトリック」などの誹りを受ける原因にもなるため、彼らは「読者自らがそのトリックの解決・理解に到るに十分と認められる手がかりや心理的布石」をそこここに配分し、難易度を調整することになる。「フェアで無理のないリアルな本格ミステリ」とは、その微調整の末の絶妙なバランスの上に成り立つ、多分に理想論的なものといえる。
そうなると、作者としては作品の完成度を上げるため、核である当初のアイデア自体を変更していかざるを得ないことが多くなる筈である。ミステリが「謎が解き明かされることが前提の物語」である以上、謎そのものよりも謎解きのウエイトが大きくなるのは仕方のないことだ。
勿論、何事にも抜け道は存在する。謎解きの無力化状態をそのままに、ミステリとして成立させる荒技を成し遂げた者も確かにいるのだ。しかし、謎解きのロジックを一筋に固定し、その筋道を読者に辿らせることで解決編を切り捨てた東野圭吾「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」、ロジックの成立性そのものの美しさを磨き上げ、真相を見抜いた読者をも飽きさせない謎解きのリーダビリティを与えた京極夏彦「
陰摩羅鬼の瑕」など、その趣向だけで作品の特色(あるいは特殊性)に繋がるものが多く、結果、汎用性は著しく低くなる。早い話、何度も使える手段ではない。
結果、発想が面白くロジックが美しいにも関わらず、それ単体では作品としては使えないネタが多く存在してしまう。それが一般のミステリ作家の悩みの種の一つであろうと思う。
前振りが長くなったが、貫井徳郎という人は、その部分に対しての葛藤が少ないように思われる。結果、ミステリに慣れたものが読めば、タイトルと冒頭の設定を見た瞬間に、後半の展開も、ミスディレクションも、どんでん返しも、オチですら即座に想像がついてしまう小説が仕上がる。
よって、彼の小説に、意地の悪い分かれ道や意図的な紛れの結果のサプライズはない。そこに存在するのは、ゆったりと広く、整備の行き届いた安全な迷路である。読者は素直に楽しめばいい。曲がり角の先に落とし穴は存在しないのだから。
でも、私はどちらかというと、落とし穴が好きなんだだよなぁ。
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108飛鳥部勝則『ラミア虐殺』(光文社)
★★☆☆☆
極上にして凶悪。
脳髄を揺さぶる「背徳の本格」。
(帯のキャッチコピー)
イコノロジーをテーマにした『絵』付きミステリ「殉教カテリナ車輪」で鮎川哲也賞を受賞し話題となった著者の最新作。ちなみにこの作者、私は初めて読むのだが……
「なんだこりゃ」というのが最初の感想。こういう小説を書く人だったのか、あるいはこれだけが異質の作品なのか、判断に悩む。
各所でこの作品の悪口を言いまくってスッキリしたので、ここでは少し冷静に考えてみる。この作品がフェアかどうかという部分については、私は特に問題ないと思う。伏線はきちんと張ってあるし、どんでん返しやミスディレクションもしっかり機能している。ドラマ的な演出についても、展開に強弱を付け、山場を際だたせ盛り上げる描き方に不満点はない。文章は教科書的でお世辞にも上手いとは言えないが、かといって読む手を止める程下手という訳でもない。――にも関わらず、本格ミステリとして読んだ場合にも、サスペンス小説として読んだ場合にも、読後の満足感がいまいち得られなかった。その理由は、この物語の方向性が結末近くになるまであやふやで、一本に定まっていないからではないだろうか。
まず表紙に「長編本格推理」の文字があり、裏表紙の紹介文では「吹雪の山荘で起こった連続殺人」。更には「犯人が突き止められないなら全員殺してしまえばいい」という、ある登場人物の台詞を抜粋している。これだけを見れば、クローズドサークルものにワンアイデアを加えた新本格系の異色作と勘違いしてもおかしくはない。ところが、ページを開くと序章から「UMAが出現した」というオカルトものめいた書き出し。その上、続く本編は淡々としたハードボイルドのような描写で進んでいき、主人公と追跡者の格闘シーンまで起こってしまうのだ。
これは果たして本格ミステリなのか、オカルトホラーなのか、ハードボイルドなのか? 読者は混乱する。そして、書き綴られるシーンの中から物語全体の方向性を掴もうとする。しかし、不可能犯罪めいた事件が起こり、オカルトめいた伏線が張られ、ハードボイルドめいた会話が淡々と続けられる中にその答えは一向に見えてこない。読者は物語に集中できず、どうしてもリーダビリティが低くなる。
登場人物の造形にも甘い部分が見られる。人間が書けていないなどという問題ではなく、紹介文曰くの「人倫も尊厳も」ないキャラクターたちの会話がどうにも地に足がつかず、上滑りしているのだ。何だか「私が本当のことを言っているか嘘を吐いているかわかりませんよ」と毎回前置きしてから会話をしているようなもので、どの台詞にもまるで真剣味が感じられない。無論、そういった狙いもあることだろう。しかし、物語を読み進める者としては、どこかに信頼すべき拠り所があることを希求してしまう筈だ。普通ならば主人公である杉崎がその役を担い、読者を導いていく。しかし、この物語ではその杉崎ですら灰色の人間として描かれているため、読者はいつまでも不安定さを拭い去れない。
不安定。この小説を一言で表すならばその言葉に尽きるかもしれない。どんなに泳ぎの好きな人でも、大洋の真っ只中にただ放り出されては、楽しむどころではない。遙か彼方に陸地があることは分かっていても、そこへ辿り着く間、泳ぎはただただ苦痛に感じられるだろう。どこかに船や、島や、ゴールの見通せる双眼鏡が必要なのだ。
こうして作業的に読み進めた果てに待っているのは、ミステリ的な解決編と、オカルト現象の真相と、ハードボイルド的な冷たい収束である。何のことはない、道は最初から最後まで複数のまま錯綜していたのだ。これではそのそれぞれが如何に味わい深いものであったとしても、読者としてはカタルシスを得られにくいだろう。
無論、これらの全てが作者の責任というわけではない。作者はあくまで正統派の本格ミステリを書きたかったのかもしれないし、異色の味を出したかったのかもしれない。それを編集の側がインモラル・パズラーなどというおかしなジャンルでパッケージングしてしまったことにも原因はあるだろう。これが富士見ファンタジア文庫か何かで、表紙や挿絵にアニメ調のキャラクターたちが踊るような装丁だったら、私は意外に高い評価をしていたかもしれない。
……何だか結局悪口みたいになってしまったな。
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