February 2005


京極夏彦『巷説百物語
西尾維新『ネコソギラジカル(上)
京極夏彦『続巷説百物語
京極夏彦『後巷説百物語
柄刀一『殺人現場はその手の中に
鯨統一郎『なみだ研究所へようこそ!

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145 京極夏彦 『巷説百物語』(角川文庫)
★★★★

人は――生きてこそ人。それは神とて同じこと。
死して後、きちんと送り届けぬは礼儀知らず。
死者にも――尊厳が御座居ます。(P.499)


 御行の又市たちが活躍する人気シリーズ、巷説百物語の第一弾。

 書かれた順序でいえば逆なのだが、イメージとしては京極堂シリーズの「百器徒然袋」に近いものがあるように感じた。妖怪をモチーフにした悪人成敗譚。ただし、怪異の解釈の仕方は真逆。京極堂シリーズでは怪異を起こすのが犯人側――正確には犯人側の所業を主人公側が「怪異に見立て」てそれを落とす、というものであるが、巷説では主人公側の又市一味が犯人側などの第三者に対して「怪異を繰り出し」、それによって悪を成敗するのだ。

 時代劇のフォーマットに則って紡がれる「怪異」の正体は、中途半端に科学技術の発達した昭和以降の世界観でのそれに比べて直感的に理解しやすくなっており、ミステリ知識がなくても難なく読み解くことができる。また怪異の選出は、有名な怪談書『絵本百物語』に依ったもので、皆が一度は耳にしたことがあるであろう妖怪や筋が大雑把に準えられており、一種の懐古感を伴ったリーダビリティの高さを体現せしめている。

 中でも「小豆洗い」などは元ネタそのまますぎて笑える。ある人物が登場した時点で落ちすら読める。無論、「嗤う伊右衛門」などでもそうだったように、話の筋を知っていても知っているなりに楽しめるように書かれているので問題はないのだが。

 ただ気になったのは、又市一味の仕掛けが毎回同じような調子で描かれるため、一つ二つの短編を読めば大方の展開に想像が付いてしまうという点。話前半の又市たちは影に潜んで行動していることが多いが、読んでいて女が出てきたらそれはおぎんで、爺さんが出てきたら治平だな、とすぐに当たりを付けることができてしまう。「時代劇」の定番としてそれが良い方向に働く場合もあるのだが、興が削がれることもある。この辺りのバランスは非常に難しいので、作者の希望通りの楽しみ方が出来るかどうかは正に綱渡りのような危うさとなる。当然、落ちとしての隠された真相は毎回捻ったものが用意されているため、お約束と捉えて見て見ぬふりをするというのが正しい読み方かも知れない。

 それらの点を考慮し総合的な完成度を踏まえてのお気に入りは、狸合戦を話に絡めてうまく纏め上げた「芝右衛門狸」と単行本書き下ろしの「帷子辻」。「白蔵主」も捨てがたい。

 陰惨な殺人劇が繰り広げられながらも、どこか牧歌的な雰囲気の漂う江戸時代の怪談。京極初心者にお薦めしたい一冊。 to top



146 西尾維新 『ネコソギラジカル(上)』(講談社)
★★★☆☆

よりよい明日のことを考えないような奴なんて、死んじゃっていいと思うよ
(P.223)


 戯言シリーズ最終章3部作の1冊目。昨年9月から毎月連続刊行予定だったのが延期され、結局丸一年掛けて先日目出度く完結した。最後なので1冊ずつに感想を書こうと思う。

 で、上巻。もはや期待していなかったが、ミステリ色は皆無。内容的には今までに張ってあった伏線を攫って並べて復習したという感じ。回収は下巻待ちなのだろう。今更といえば今更のネタばかりで、目新しい情報はほぼない。いつになくいーちゃんが神妙にしているためか、周囲の人たちも殆どはっちゃけておらず(絵本さんぐらいか)、静かなスタートという雰囲気だ。まあこういうものも嫌いではない。

 ただ、副題にもなっている十三階段については肩すかしを食らわされた。いくらいーちゃんがアンチバトルキャラだからといって、周囲にこれだけの戦闘要因がいて、心躍る戦闘シーンのひとつもないというのはライトノベルとしてどうなのか。『零崎双識の人間試験』でも思ったが、どうやらこの作者、バトル好きな割にはバトルを書くのが存外に苦手な様子。よく考えると、今までの哀川さんの八面六臂の活躍シーンも殆ど直截描写されていなかったような。実はラノベ作家に向いてないのではないかな。

 そのことは、一見目立たない部分でミステリ的演出が十二分に機能しているところからも窺える。ラノベ作家はここまで整合性を考えないし、情報を隠蔽しない。なぜなら隙が多い方が読者の補完の余地がある上、情報をだだ漏らしにした方がシリーズ読者により優越感がもたらされ、必然的に次作も買わせることに成功するだろうからだ。

 今回は特に後者が凄い。いつも感心する部分だが、要するにシリーズものミステリのネックともいえる、過去作品のネタバレ回避法だ。多くのレギュラーキャラを持つシリーズでは、どうしても過去に起きた事件や加害者・被害者などのキャラクタについて回顧するシーンを挿入せざるをえないのだが、過去作品を未読の読者のためにも可能な限りネタバレは避けたいもの。この作者はその誤魔化しが神業的に上手い。

 死んでいる人間を生きているように描き(それでいて生きているとも明言せず)、犯人をそれと分からないように登場させるなどはお手の物。今回もっとも感心したのはナイフの件。ネタバレなのでどこをどのようにという説明はしないが、ここまでミステリのマナーを心得た本作がミステリじゃないというのが実に惜しまれる。

 正直、西尾維新はミステリを書くべきだと思う。それを再認識しただけでも今回は儲けものだった。幸いにも(?)戯言シリーズはあと2冊で終わるようなので、これですっぱり縁を切って、ミステリの新シリーズを立ち上げてもらいたい。清涼院とか魔法少女はもういいから。(→中巻感想へ to top



147 京極夏彦 『続巷説百物語』(角川書店)
★★★★

妖怪も心得たものじゃ。
取り殺す相手を間違えるようなことはないのであろうし、
死んだなら――死んだなりの理由があるのであろう。(P.65)


 あっという間に読了。やっぱり京極はリーダビリティ高い。

 前作「巷説百物語」の正当な続編でありながら、その構成はがらりと変化している。巷説を意識した様々な視点が乱れ交わる前作に対し、今作では物語の語り手を「考物の先生」こと山岡百介一人に据えて、彼の見聞きする怪異を情感たっぷりに描いているのだ(そのせいか、益々「百器徒然袋」に似てきている)。

 作者は以前どこかで「上下巻や続編というスタイルが嫌いだ。だからこれは『続・巷説百物語』ではなく『続巷説百物語』という単体の作品である」と語っていたように記憶しているが、正にそういった心積もりで描かれた物語なのだろう。

 さて、今回も絵本百物語を紐解き、様々な妖怪を選び出して語っている。「野鉄砲」から始まる物語は前作にもまして複雑怪奇。前作のテーマがポピュラーな怪異とすれば、今作は実にスタンダードな怪異、より我々の実生活に肉薄した恐怖を司る妖怪たちが暴れ回る。

 加えて今回は一話完結の短編連作でありながら、ひとつひとつの物語では消化されきらない伏線が積み重なり、クライマックスに至って一本の大きな流れを形作っていく。特に「船幽霊」以降の怒濤の展開は作者の筆致も冴え、実に勢いと迫力があって、読む手が止まらない面白さ。

 「死神或は七人みさき」のエピソードは先にWOWOWのドラマ版を観ていたため大筋は知っていたのだが、映像表現と文章表現の相乗効果が働いたせいか返って楽しめたような気がする。大騒動のあとの「老人火」の余韻が寂寥を誘う。

 今回はいずれのエピソードも甲乙付けがたい出来。ただ単体としてのみの評価を出すなら「飛縁魔」のけりの付け方が一番好みかな。

 百介の物語にはこれで一応けりがついたわけだが、続く「後巷説百物語」では果たして誰によってどのような怪談が語られるのか、実に楽しみだ。 to top



148 京極夏彦 『後巷説百物語』(角川書店)
★★★★

憑き物は憑けるだけでなく、落とせなくてはいけません。
そうでなくてはならないのです。(P.714)


 間をおかず読了。巷説シリーズ最新刊にして直木賞受賞作品。

 あの北林藩の怪異より時は流れ、時代は明治へ。かつての藩士で今は貿易会社社員の笹村与次郎は、友人である警視庁一等巡査の矢作剣之進に知恵を求められると、古くよりの文献を持ち出し、彼らを含む仲間4人を集めて検討し合う。議論が白熱し、やがて収拾がつかなくなると、与次郎たちは決まって薬研堀に隠居する一白翁の下を訪れる。博識な老人は諍う彼らを宥め、やがて自身の昔話を語り始めるのだった。

 巷説シリーズを構成しめる最も重要な要素は、「語り」の部分である。物語が「何某かによって語られているもの」である以上、どの作品にも「語り」の要素は存在する。しかしこのシリーズにおいては、その「語られる過程」「語られる場」の形成こそが主題であり、「語られるもの」と「語られないもの」の差異が語られることによってカタルシスが演出されるのである。

 本作ではこの要素がもっとも単純な形で著される。一白翁の語るものこそが「巷説百物語」であり、それが語られていく本書は題目どおりの後の世の物語なのである。新たな物語が語られるたびに古い物語は入れ子に収まり、しだいに「語られるもの」と「語られないもの」の境界が曖昧になってゆく。やがて「語られるもの」と「語られないもの」がその立場を逆転した瞬間、そこに怪異は現出する。

 「後巷説百物語」に又市たちは登場しない。当然なのだ。彼らは一白翁の語る「巷説百物語」の中でのみ、「語られないもの」としてその存在を露わにするのだから。

 最後の語りを終えたからこそ、一白翁は又市を常世に呼び出すことができたのだろう。これはまさに「巷説百物語」なのだ。 to top



149 柄刀一 『殺人現場はその手の中に』(祥伝社)
★★★☆☆

雌型と雄型。地形の意味とは反転する空。
渓谷に挟まれたその空にこそ、
様々な声や音が舞っているのではないだろうか……。(P.202)


 IQ190であらゆる分野の雑学知識を有するくせに生活能力は皆無という天地龍之介シリーズ、待望の最新刊。順調に出ている様子。このシリーズの魅力は一時期流行った「科学手品」をメイントリックに起用していることと、各エピソードは一話完結式ながらもシリーズ全体を通して主人公の大目的が達成される様を描く大河ストーリーであること。今回は、巨額の遺産を受け継いだ龍之介(ここまでが前回までの流れ)が模索したその使い道である「学習プレイランド」計画を具体化させるべく東奔西走する連作短編5章を収録。

瞳の中の、死の予告 事故死した会社員は空中に「死」の文字を見ていた。そして龍之介も……。
 錯覚というのは実に面白い現象だと思う。脳は偉大。文字の謎の解明から意外な真実が明らかになる一連の流れが美しい。
アリバイの中の
アルファベット
 故人が看板に取り付けた意味不明の「A」の文字は細かなパーツによって構成されていた。
 これはちょっと強引。真相は予測できるが、アルファベットの謎はもっと壮大なものかと思った。
死角の中のクリスタル 箱の中から煙のように消え失せたクリスタルのゴブレット。盗んだのは誰か?
 犯人特定のロジックは美しいが、ちょっと分かりにくすぎ。
溝の中の深い殺意 ある神事を収録した古いレコードが科学解析される。そこには扇による殺人の謎が――
 扇が凶器、というシチュエーションが素晴らしい。レコードを狙う二人組の目的、閉じ込められた部屋からの脱出劇、継承者の死によって絶えた「遠見の能力」の真実――複数の謎や状況が絡み合い、一本に収束するのは見事。
ページの中の殺人現場 犯行現場を指し示すのは、一冊の本に残された血痕。
 意欲的な試み。こういうものがあるからミステリはやめられない。ロジックは単純なので、深読みしなければ犯人は自明。本好きならまず解けるはず?

 ロジックでは「死角の中のクリスタル」、サスペンスと意外な真相は「溝の中の深い殺意」、心憎い遊びの演出は「ページの中の殺人現場」、とそれぞれに異なった味がある、お得な一冊。なにがなんでも科学ネタに持っていきたいという作者の意気込みが空回りし、ギャグのレベルまで到達しているものもあって笑える。

 ただ、相変わらずだが文章が読み難いのが大きな欠点。状況描写が作者の脳内説明になっている部分があり、登場人物の素性ひとつ理解するのに何度も読み返さなくてはならなかったりする。この作者も既にベテランの域に入っており、これ以上の文章上達は望めないと思うので、私は既に諦めているが、初心者には取っつきにくいんじゃないかと思う。

 あと、本書最大の売りである「ページの中の殺人現場」に使われたとある趣向が、何故あの位置にあったのか甚だ疑問。別に前の方のページでないと不都合が生じるわけでもないのだから、当該短編部分に仕込んでおくのがもっとも良かったのでは? これが長編であるとか、最後で全ての短編が繋がる趣向に利用されるのならば話は分かるが。読んでいて、果たしてこれがいつ意味を持ってくるのかとずっとやきもきしてしまった。

 ともかく、龍之介の夢が実現に向かって動き出したということで、続刊に期待。光章も一美さんと痴話喧嘩できるまでの仲になったようで。幸せそうで微笑ましい。無論、この先さらに波瀾万丈の人生が待ち受けているのだろうけれど、ね。 to top



150 鯨統一郎 『なみだ研究所へようこそ!』(祥伝社)
★★☆☆☆

「あたしなんだか、”今日はフロイト”っていう気分なんです」
(P.70)


 数々の臨床実績を持ち、その素性が知られぬことから伝説のセラピストと称される波田煌子が所長を務めるメンタルクリニック「なみだ研究所」に配属されることになった新米臨床心理士の松本清。彼を待ち受けていたのは、それまでのカウンセリング技術を根底から覆すような波田煌子の特殊な診療世界だった!

 読んでいる最中、何度も本書を投げそうになった。というか投げた。それでもめげずに全部読み切った自分を褒めたい。最後のエピソードだけは投げそうにならなかったのが救いか。

 表紙には「サイコセラピスト探偵」と銘打ってある。そういえばこの作者、毎回「○○探偵」ってという呼称を使うんだな。とんち探偵一休さんとか。まあとにかく、その「サイコセラピスト探偵」である波田煌子が行っているのはサイコセラピーでもなんでもなく、むしろサイコセラピーの常道を完全否定した行為である。もちろん本作の目指すものは、語り手である松本が杓子定規な診療法を試すが失敗、波田の破天荒な治療が返って良い目を出すというフォーマットなのだろうが、これが上手く機能していないのだ。

 まず松本の(引いては作者の)精神分析学知識が全く不十分で、クライエントに対するオーソドックスな診療法自体を読者に提示しきれていない。その上で波田が滅茶苦茶なこじつけ解釈(本当に、笑えないくらいに強引なもの)を打ち出し、しかも物語の構造上それが正解とされてしまうため、どうしても御都合主義的展開の茶番劇に見えてしまい、落ちを読んでもすっきりしない。ハッタリがハッタリに見えないのだ。どうやらこの作者、歴史物に対しての知識はあっても、心理学となるとからっきしのようだ。

 唯一本を投げなかった最終話の趣向にしても、まあミステリ作家ならこれぐらいの手は使ってくるだろうという水準ギリギリのテクニックだし、それ自体もう少しスマートに演出できたのではないかと思うと手放しで褒められない。

 ストーリーテリングの才能が余りない作者だとは思っていたが、ここまで演出が下手だとちょっと先が心配。本シリーズは続編も出ている様子だが、様子見かな。 to top


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